水曜に梅田のシネ・リーブルでカール・ドライヤーの『吸血鬼』を見たのだが、

睡魔と闘いながらうつらうつらとしているうちに気がつくとラスト5分くらいだった。

製粉所の粉に埋もれて死にかけている男は悪い奴なのか?

よく分からん。

そこで金曜にアップリンクでもう一度『吸血鬼』を見た。

両館でデンマーク出身の映画監督カール・ドライヤー(1889~1968 )の作品が特集上映されている。


『吸血鬼』(1931年)はたえず劇伴の音楽が流れているが、

台詞が極端に少ない。

ナレーションがない代わりに、

吸血鬼に関する書物を登場人物が読むシーンが何度か出てきて、

ドイツ語の頁が画面一杯に映し出される。

吸血鬼に関する研究書のような本なのだが、

ストーリーはその内容が予告する方向で進んで行く。

 

ちょっと独特なスタイルは『吸血鬼』の次に見た

『あるじ』(1925)というサイレント映画を見て腑に落ちた。

 

こちらはホームドラマで、一家の主ヴィクトルという男が

妻イダに厳しく文句ばっかり言って暴君として振る舞っている。

家の手伝いに来ていたマッス婆さんがイダを実家に帰らせて、

ヴィクトルに家事をさせ

主婦の仕事がいかに大変か分からせ、反省させる、

というユーモラスなお話である。

 

イダはじっと耐える従順な妻という、わりと類型的なキャラクターだが、

このマッス婆さんが面白い。

もとはヴィクトルを厳しくしつけた乳母だった。

その過去を強みとして

ヴィクトルをいわば再教育するわけである。

 

フランス等で大ヒットだったそうだ。

家事労働に無理解な夫がやっつけられるのが痛快だったのだろう。

100年前のヨーロッパにはそういう夫がごろごろいたのだろうが、

 

 

 

巨匠は女の味方だった。

いや、今の日本でもそれほど変わっていない、

という声がどこかから聞こえてきそうである。

 

近くの植物公園をよく散歩するのだが、

あるとき、それぞれ赤ちゃんを連れた若い母親二人が

芝生の上でおしゃべりにもりあがっているのを見かけた。

「あっちへ行って、もっと夫の悪口言い合いましょう」

という楽しそうな声が聞こえてきたので、そうそうに立ち去った。

やっぱり、結婚しなくて良かった。

閑話休題。
『あるじ』はサイレントなので、始終ピアノの音が聞こえ、ときどき文字の画面になる。
『吸血鬼』の極端に台詞が少なく、文字で内容説明を行うスタイルはちょっとサイレントに近い。

『あるじ』では家族間で無音の言葉が飛び交っているが、

『吸血鬼』では、台詞そのものが極端に少なく、映像だけで表現するという方向へ大きく傾いている。

それだけに映像表現には様々な工夫がなされている。

特に印象的だったのは、不気味な草刈り鎌と、

最後の方に出てくる、水車小屋の巨大な歯車である。

 

歯車が降らせる小麦粉に埋もれてゆくのは、

やっぱり悪い奴だった!