S12  ジョルジュ・サンドの屋根裏部屋 Ⅲ
 レオ・フェステティクス伯爵から、ドナウ川の氾濫による被災者を救うため、協力を求められてリストは,ジェネーヴへ帰ろうというマリーを置いてウィーンへ向かう。リストとマリーの間に隔たりが生まれる。パリに残されたマリーは生活のためダニエル・ステルンとしてジラルダンの経営する新聞で記事を書くことになる。
事実:1838年ハンガリーが洪水で大きな被害を受けたことを知ると、リストは急遽ウィーンで4月18日から5月25日までの間に10回の演奏会を開いた。リストは24000グルデンをハンガリーに寄付した。また、この演奏会が大成功だったのでリストはヴィルトゥオーゾとしての活動を再開する決心がついた,ということを36年後の書簡の中で述懐している。(福田弥『リスト』音楽之友社、64~65頁参照)
 リストはパリではなくヴェネツイァに病気のマリーを置き去りにしました。この一件がマリーとリストの間に亀裂を生じさせたのは間違いありません。マリーダグー『巡礼の年 リストと旅した伯爵夫人の日記』(青山ライフ出版、 2018年)に「ヴェネツイァの一挿話」が収められていますが、そこにはマリーがこの時期いかに辛い思いをしたかが綴られています。社会的にはリストの行動自体は立派なものだったのですが・・・
 S3の説明で書いたようにダニエル・ステルン名義での執筆活動は1841年以降なので、事実を先取りしすぎです。

 「ヴェネツイァの一挿話」を読むと、レオ・フェステティクス伯爵の求めによってはなく、リストがドイツの新聞を読んでなんとかしなければ、と思ったのだと分かります(前掲書312頁)。事実通りでもいいと思うのですが、宝塚の『巡礼の年』ではできるだけ貴族の影響力を強調する脚本になっていますね。さて、レオ・フェステティクス伯爵とは誰かを調べてみました。S4でリストはサーベルを授与された、ということを書きましたが、そのサーベルを授与したのがこの伯爵でした。
「演奏会の後、六人のハンガリー貴族と貴族の市参事が完全無欠で豪華な民族衣装で現れ、レオ・フェステティクス伯爵(1800~1884、ペスト市の劇場興行主)が、サーベルを彼に授与した。そのサーベルの鞘には、銀や金が張られ、古風な打ち出し細工が施され、宝石がいくつも象眼されていた。」とペーター・ラーベ著『リストの生涯』には書かれています。(エヴェレット・ヘルム著『リスト』(音楽之友社、2005年)99頁に引用されています。)