TOHOシネマズで絶賛上映中の宝塚のミュージカルは、史実ではどうだったか検証するシリーズです。
S11 象牙の闘い(パリのサロン)
舞台:リストとタールベルクの闘いはテクニックでは決着がつかなかった。しかし、リストがパリから離れた日々に作曲した曲を弾くと、叙情的な調べに人々は酔いしれる。
事実:いわゆる「ピアノの決闘」が行われたのは1837年3月31日、クリスティナ・ベルジョイオーゾ侯爵夫人のサロンでした。この貴婦人はイタリア統一と独立を志す女性で、イタリアからの亡命者のためのチャリティー・イヴェントの呼び物としてリストとタールベルクが出演するコンサートを企画しました。2人の他にも出演するピアニストはいましたが、40フランもするチケットを買った人たちのお目当ては2人の対決でした。タールベルクが演奏したのは『「モーゼ」に基づく幻想曲』でリストは『「ニオベ」に基づく幻想曲』でした。どちらも何それ、という感じの曲ですが、当時はオペラのメロディーをパラフレーズしたような曲が人気でした。リストは『巡礼の年』に収められることになる名曲を弾いたわけではありませんでした。
さて、どちらが勝ったのでしょうか?4月3日の『ジュルナル・デ・デバ』にはジュール・ジャナンの「勝者は2人、敗者はいなかった。」という記事が出ますが、それよりずっと有名になった言葉があります。サロンの主ベルジョイオーゾ夫人が「タールベルクは世界一のピアニストです。―リストは唯一のピアニストです。」と言ったということになっています。サロンの主はこのようにどちらにも傷がつかないような警句を吐くものだ、といったことを書いた本を読んだ覚えがあります。しかし、アラン・ウォーカーは、リストがマリー宛の書簡でこの言葉をマリーのものとしていると指摘しています。「当地ではタールベルクと僕についてのあなたの言葉がよく引き合いに出されます。彼が第一の,僕が唯一のピアニスト、という例のアレです。シューマンはそれには満足しません。僕が第一にして唯一のピアニストだと言い張るんです。」(1840年3月20日、ライプツィヒ発のマリーダグー宛て書簡)『フランツ・リスト=マリー・ダグー往復書簡集』(Fayard)の注釈者は、一般的にベルジョイオーゾ夫人のものとされているこの有名な言葉を、リストはダグー伯爵夫人のものとしていることが分かると興味深い、というだけに留めています。(p.562)唯一のピアニストであるということは、リストは比較を絶したピアニストであるということになり、リストの方が上回っている、という意味だと解釈するならマリーの言葉だというのもうなずけます。
その後、タールベルクはピアニストとしてリストよりも長く活動を続けて、ブラジルやアメリカでもコンサートを開いたとのことです。リストはピアニストとしてよりも作曲家,指揮者として生きる道を選びました。タールベルク作曲の曲もCDなどで聴くことができますが、作曲家としてはリストの敵ではありませんね。