TOHOシネマズで絶賛上映中の「巡礼の年」ですが、舞台のシーン毎に史実を確認するシリーズです。

 

S10 巡礼の日々・3
舞台:サンドはリストにパリへ戻って演奏するように頼む。ラプリュナレド伯爵夫人の後ろ盾をえたタールベルクが最高のピアニストだと称賛されているのがサンドには我慢ならなかった。
事実:リストのライヴァル、タールベルクはどんな人だったのでしょうか?アラン・ウォーカーのFranz Liszt, Tome 1, Fayard, 1990を紐解くと以下の様になっています。(p.240~p.252参照)
 ジギスムント・タールベルクはリストが生まれた翌年、1812年に、ジュネーヴに生まれました。噂ではディートリヒ・シュタイン公とフォン・ヴェツラー男爵夫人の婚外子でした。母は父に「この子が平和な谷Thalであり、いつの日か山Bergになれるように」と、この子にタールベルクという名前を与えてはどうかと手紙に書いた、という伝説があるそうです。あくまでそれは伝説で、出生証明書によれば、ヨーゼフ・シュタインとフォルチュネ・シュタインの子なので、タールベルクは本名だ、とアラン・ウォーカーは書いています。1989年に出た『標準音楽辞典』(音楽之友社)では「大貴族の庶子」となっていますが。
 何はともあれ、タールベルクは14歳で華々しくデビューします。1830年のイギリスツアーが成功して、第一級のピアニストとして認められるようになり、1834年にはオーストリア皇帝付きピアニストKammervirtuosとなります。1835年秋にパリに登場した時には大旋風を巻き起こしました。その冬パリはリスト派とタールベルク派に分かれて新聞紙上などでさかんに論じられました。リストはパリを去った後だったので、間接的に噂を聞いて、タールベルクは気になる存在になります。ベルリオーズは難曲「ハンマークラヴィーア・ソナタ」を見事に演奏したリストを「未来のピアニスト」と讃えました。(1836年6月12日)フェティスという評論家はタールベルク派でしたが、リストが未来のピアニストならタールベルクは過去の人なのかと腹を立てます。そこへ『ガゼット・ミュジカル』にリストの名前でタールベルクに関する記事が出ます。(1837年1月8日)実際に執筆したのはマリー・ダグーで、タールベルクの音楽は無価値なものと決めつけていました。フェティスがそれに反論し、さらにリストが反論するという応酬がしばらく続きます。
 ピアニストの評価は主にコンサートでの成功、評論家などの新聞紙上での評論などによるもの、そして皇帝付きピアニストのような称号といったものからなっています。サロンでの成功も無意味とはいえないでしょうが、主なものではありません。またサロンのギャラはわりと安いものだったようです。マリー・ダグーは自伝の中でサロンでコンサートを開く場合、例えばロッシーニのような人物にごくわずかなお金を渡して、プログラム、人選、ピアノ伴奏までまかせるけれど、音楽家たちは使用人扱いだった、と書いています。(p.240) サンドもラプリュナレド伯爵夫人もタールベルクがらみで果たす役割はありませんでした。