森有正を求めて④モン・スーリ公園の「湖畔亭」という名のレストラン | PARISから遠く離れていても…

PARISから遠く離れていても…

わが心の故郷であるパリを廻って触発される数々の思い。
文学、美術、映画などの芸術や、最近では哲学についてのエッセイなども。
時々はタイル絵付けの仕事の様子についても記していきます。

森有正が生涯最後に館長の職についた国際大学都市「日本館」を後にし、

帰りは行きに素通りしてしまったモンスーリ公園の中を抜けていこうと思った。

建物の門を出て目の前の環状道路を向こう側へ渡ると公園の入り口があった。

さっそく中へ入り道なりに歩いて行ってみる。

 

 

 

 

実は前回2014年のパリ旅行の際に一度訪れているので、

なんとなく園内の様子を覚えていた。

写真の雰囲気でもわかるとおり、自然がよく生かされたイギリス式庭園造りである。

 

 

 

 

 

通りの先には…

 

 

 

 

 

 

 

このような池があり…

 

 

 

 

 

 

 

 

池の周りをぐるっと回ると…

 

 

 

 

 

 

 

 

人々が思い思いの恰好で芝生の上でくつろぐこんな空間があり…

 

 

 

 

 

 

 

 

ここがパリ市民の憩いの場所であることが実感できる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前回2014年の時ここへ来たのにはちょっとした理由があって…。

池のすぐ前にあるフレンチレレストランがどんな感じか見てみたかったというもの。

こういう店はちゃんと食事をすればそれ相当の値段もするだろうし、それに予約も必要な筈だ。

もちろん運よく空席がありお茶とケーキでよければ入ってみたいという気持ちはあったものの、

食事が目当てというわけではなかったので、外から店の雰囲気を窺うだけでもよかったのだ。

しかし何故か店はすぐに見つかったものの、休業中であった。

お目当ての席はパラソルはもちろんのこと、テーブルや椅子も畳まれ、

がらんどうの建物だけがポツンとそこにあったのを覚えている。

 

ここは「日本館」から近いということもあり、森有正もよく利用していたようだ。

森氏は「湖畔亭」という呼び名を使っていたが、

正式名称は Pavillon Montsouris (パヴィヨン・モンスーリ)という。

館長の仕事の合間の息抜きに、また知人との語らいや

日本からの客人のもてなしなどその目的は様々であったろうが、

私個人にとって最も印象的だったのは

作家の高橋たか子と森有正の2人が

ここでディナーを共にしたということである。

 

私の森有正に対する思いはこれまでのブログ記事を通じてお分かり頂けると思うが、

高橋たか子(1932~2013)も実は私の中では特別な存在なのだ。

高橋たか子の小説について少し触れているのがコチラ

 

作品もそうだが1人の女性として、また生き方も含めてとてもシンパシーを覚える存在。

シンパシー、いやきっとそれ以上かもしれない…。

フィクションである小説は別にして、たか子氏が書かれた幾つものエッセイを読むにつけ、

 

“自分自身とそっくりな人間がここにいる。まるで私の分身だ”

 

そういう思いはますます強くなり今日まできているというわけだ。

(高橋たか子についてはまた、別の機会に詳しく触れようと思っている)

 

そのような自分にとっての最強の2人が男女が顔合わせをする。

これぞ願ってもない夢の競演ではないかチョキ

 

もちろんこれはあくまでも私の“個人的な思い”だということは承知の上で、

それでも、もし森有正という人物に多少なりとも興味を持たれた方のために、

本人を知るためのエピソードの一つとしてこの話が参考になればという思いから取り上げてみたい。

 

 

クローバー

 

まず2人の顔合わせが実現したのはどのような過程を経てかというと、

たか子氏からのアプローチから始まったようだ。

その辺りの事情はたか子氏のエッセイ集「記憶の冥さ」(人文書院)に書かれているので要約してみる。

 

 昭和51年(1976年)の5月、ふいに森有正という人物に会ってみたいと思い立ったたか子氏は、森氏が社会的に偉い人物であるとも知らずに、共通の知人の紹介で唐突にパリまで国際電話をかけた。(思い立つと普通はためらうようなことでも実行してしまうと自身でも言っている)。 その目的は森氏に会ってパイプオルガンについて話し合いたい、できれば目の前で弾いて聴かせてほしいというものだった

これについてたか子氏はこのように説明している。

 そう思い立つ一年半前位に、ちょうど滅多に見ないテレビでバッハのことを話している森氏の姿を見て、自分もパイプオルガンを偏愛することから、同じような宗教的感受性を感じたと延べている。たか子氏がいうこの場合の宗教的感受性とは、小学校低学年でバッハの曲をいいよいもなくいいと感じることのできる特性というものののようだ。( ※注 森氏は昭和49年頃から夏休みを利用して毎年一時帰国をし、NHKでオルガン演奏やバッハの魅力などについて語っていたのでそれを見たのだろう)。

 

 友人からの紹介状はまだ届いていなかったにもかかわらず、たまたま日本館の館長室にいた森氏と連絡がつき、昭和51年の6月20日の夕方に日本館で会う約束を取り付けた。

 約束の時間より早く着き大学都市の建物を散歩するたか子氏の胸中はどのようなものだったろう。

 

その後に2人で「湖畔亭」に食事に向かうことになるのだが、

その前に日本館での2人の出会いの瞬間についてぜひとも記しておきたい。

 

 

エッセイのたか子氏自身の文章でお届けしよう。

 

 

(以下、斜体部分はエッセイより引用)

日本館に入り、廊下を歩き、館長室の重たいドアを開けると、それまで密閉されていた内部からパイプ・オルガンの驚くほど近い音が私にむかって流れ出てきた。不意打ちのうれしさである。御自宅ではなく日本館へこいと言われたので、パイプ・オルガンは聴けないものと思っていた。(中略)館長室はいくつかの部屋から成っているらしく、入り口から廊下が伸び、一番奥の部屋からその音がつたわってくる。声をかけるのも惜しく、廊下に置かれた長椅子に腰かけて、長いあいだ聴いていた。(中略)森有正にやっと声をかけたが、パイプ・オルガンはいっこうに止まない。私はそれが聞こえてくる部屋の入り口まで歩いていった。(中略)鍵盤の前に座ったまま振り返られた森有正に、私は挨拶し、そのまま弾き続けていただきたいと言った。そして、今度は部屋のなかに座って、また聴かせてもらった。

 

森氏とたか子氏、いずれの人となりがよく出ている箇所だと思われるし、

さながら映画のように映像が次々に目に浮かぶ印象的な出会のシーンではないか。

 

ところでここで森氏が弾いていた曲は何だったのかが気になるところだが…

 

「バビロンの流れのほとりににて」というコラールの名が森有正の本の題になっているために、私はそのコラールを家で何度も何度も聴いていた。(その本のほうは、じつは、買ったままで、その時はまだ読んではいなかった)…(中略)森有正が弾き終えられたので、コラールですかと訊ねると、コラールだと答えられた。

 

ここに書かれているとおり、それは「バビロンの流れのほとりにて」というコラールであった。

 

と聞けば…もしかして思い出された方もいるだろうか。

森氏の著作に「バビロンの流れのほとりににて」というエッセイ集があるのだ。

(以前にコチラの記事でも触れているのでぜひ御覧頂ければと思う)

 

クローバー

 

さて、2人は「湖畔亭」へと向かうことになる。

再びたか子氏のエッセイに戻ろう。

 

 

それから近くのモンスリ公園のレストランへ行くために並んで歩いている時、息づかいが苦しそうだった。(中略)丈高いマロニエが覆いかぶさるように茂っている、広い美しいテラスで御馳走になった。マロニエの葉の間にちらちら見える宵の空は、パリの夏の宵特有の明るさである。

 

 

                                                            ※画像はWikipediaより拝借

< Pavillon Montsouris >        

住所 20 Rue Gazan, 75014 Paris 

 

 

 

ディナーのメニューは、油漬けの鴨やパリにしてはめずらしいアスパラガスのサラダ、

それに赤ブドウ酒をいただいたとの記述がある。

 

2人は食事しながらどんな会話をしたのだろうか。

 共通項はパイプオルガンであるが、その根底に流れるのはキリスト教である。

ここで注目すべきは、たか子氏が森氏に会う前年(昭和50年)にカトリックの受洗をしたということである。

またたか子氏の年譜を見ていてはっと気が付いたのだが森氏に会ったこの月に、

私が最高作と称賛してやまない「誘惑者」を発表している(※同年11月に第四回泉鏡花賞を受賞)。

つまり「誘惑者」執筆中にカトリックの受洗を受けていたということになる。

そしてもう一つの共通項としてのパリという土地。

高橋たか子本人の言葉で言うならば、

“森有正が自らを流謫させるふうにして日本から移り住んだパリに、

私もまた流謫のように行ったという、状況の相似のせいだろう”

 

最もたか子氏のほうからのアプローチである故に、森氏に対しての予備知識は幾分はあったろう。

しかしあくまで受身の立場である森氏が同様だったとは言い難い気もする。

何しろ森氏はたか子氏が京大に入学した年に渡仏しているので、

その後のたか子氏の華々しい作家活動など知る機会もなかったのではと私は想像するのだが。

 

そのような背景があったなかでの2人の語らいは尚更興味深くもある。

たか子氏が書かれた言葉を整理してみると話題は一言でいえば「個」の問題についてだった。

 

「フランス人と日本人との違いについて…自分と他人が別の存在だという認識をフランスでは誰もが持ち、だから親子でも夫婦でも相手に法外な期待はしない。あらゆる人が孤独であるが、人間存在においてはそれが当り前のことと知っていてそれを悲しんだりはしない。またフランス人は1人の時はどんなに不機嫌でも他人と一緒だと愛想がよく、要するに<個>の内と外のけじめがある。だが日本人は<個 >というものがわからない」。

 

そのようなことを森氏が中心に語り、たか子氏もその考えに賛成した。

ここで言われる<個>とは<個人主義>と言い換えても差し支えないと思われるが、

この<個人主義>の意味を理解できない日本人はやはり多いだろう。

これはごく私的な見方だが、昔からの歴史的な背景に根差した国民性というものにより、

日本人にとっては全く相容れない考え方だからなのかもしれない。

 

さて話の内容は別にして、実は私が興味を惹かれた部分がある。                          

それはパイプオルガンについて話し合いたい、目の前で弾いて聴かせてほしいという、

たか子氏が森氏に逢いたかった理由の背後にある<潜在的な思い>についてである。

 

そのヒントはたか子氏の先程から何度となく取り上げているエッセイ集「記憶の冥さ

「バビロンの流れのほとりにて」について書かれた部分にあるように思う。

 

“こんな本がこの世にあったのになぜ私はいままでこれを読まなかったのだろう、と、

いま言っても仕方がない。いまだからこそ、わかったのだ、とも言える”

 

たか子氏は若い頃から文学における倫理的態度は野暮なものと拒否してきた。

選んだのは頽廃的な<美>でそれのみをずっと享楽し続けてきた。

だからこそ森有正の倫理的な言葉に出会った時、

乾いた砂漠の地を潤す水のように心に沁み込んでいった。

<倫理>とはまた自分にない男性的なものということもいえるのではないか。

 

たか子氏が実際にこの本を読んだのは森氏の没後おそらくほどなくしてからのようだが、

自分が偏愛するパイプオルガンのバッハのコラールと同じタイトルの

「バビロンの流れのほとりにて」というエッセイ集の中にはきっと、

自分にとって必要な言葉が書かれている筈だという予感のようなものがあったのかもしれない。

それならその人物にまず会ってみたいという思いに駆られても不思議ではない。

 

 

“いうまでもないが、或る本に出会うについて、出会う時期がある。(中略)その人とその本が、或る日、本当に出会うには、その人がその本の中身と同じ性質を備えるまでに成熟していなければならない。人は決して自分とは無関係な本に「出会う」ということはないのである。本当の「出会い」は自分に出会うことである。” (高橋たか子エッセイ集「記憶の冥さ」より)

 

 

 

 

2人がこのレストランで会ってから1ヵ月半ほどして、

森有正は持病が悪化し帰らぬ人となった。

 

 

クローバー

 

 

今回、私が訪れた時には店は営業中で、テラス席にも2組の客がまだ座っていた。

これならひょっとして予約なしでも大丈夫かもしれない。

だが糠喜びもほんの一瞬、席に座ろうとするやいなやテーブル係のムッシューが跳んで来て、

「もう閉める時間だから」とか何とかという感じの身振り手振りで追い払われた。

こちらも最初から意図していた訳ではないので、まあそれも仕方がないだろう。

 

 

 

ベル最後に③の冒頭でも書いたが、この日は街歩き走る人の最高記録をマークした。

27664歩 20,4km

いやぁ~我ながら、よく歩いたものだー。口笛

 

 

 

 

よろしくお願いします

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