今回のパリ滞在でどうしても訪ねてみたい場所があった。
今まで触れなかったのは自分自身にとってまだ機が熟すという感じではなかったからだろうか。
つい先日ノートル・ダムが受けた被害についての思いなるものを記事にしたが、
そこである密かな目的のために聖堂とその周辺を訪れたと記したけども、
それが今回のタイトルに繋がる。
今回ノートルダムが炎に包まれ変わり果てた姿となったことが契機となり
今ここで在りし日の何も変らぬままのノートル・ダムの姿を振り返りつつ
私がその生き方に敬意を表してやまない<森有正>の足跡なるものを辿ってみたい。
森氏についてはちょうど1年前に記事に取り上げほんの少し経歴なども取り上げているので、
初めての方もできればそちらを参考にして頂ければと思う。
アラブ世界研究所前のトゥルネル河岸通り、セーヌの下流方向の左手をしばらく進むと、
シテ島へと架かるアルシュベッシェ橋が見えるところから通りはモンテベルロ河岸と名前が変わる。
この辺りからシテ島(中洲)に聳えるノートルダムの全景がよく見えてくる。
さてここでアルシュベッシェ橋を渡ってシテ島に渡りノートルダムの傍へ行ってもよいが、
今回は私が訪れたかった場所へ向かうことにする。
私にとってパリの街歩きのバイブルにもなっている
故早川雅水氏の著書『パリの横町・小路・裏通り』によれば、
この先のオ・ドゥブル橋、プチ橋、サン・ミッシェル橋と続くモンテベルロ河岸通りの
左手側奥の約400メートルに広がる無数の小路街こそが
本物のヴィユ・パリ(古きパリ)と呼ばれる国家誕生以前の
リュテス時代の中心となる一帯であるという。
"ここを見ずにパリは語れない"
という早川氏の言葉を胸に刻みながら
今回こそは訪れてみたいと思っていた。
その思いを一層強めたのは冒頭でも触れた
<森有正>という存在である。
森氏は1950年に渡仏しパリに住んで26年の間に住居を幾つも移り住んだ。
その最後の住居となった、窓からノートル・ダムの外陣をのぞみ眼下にセーヌの流れるアパートを
まず訪れてみることから出発したいと思う。
森氏の著書としておそらく最も知られる『遥かなノートル・ダム』という哲学的思想的エッセーがある。
森氏にとっていったいノートル・ダムという存在は如何程のものだったのかー。
毎日のように窓からその外陣を薔薇窓をどんな思いで眺めていたのかー。
自分などには到底窺い知れるはずもないのは当然のこととしても
せめて出来る事ならば同じ場所に立って感じてみたかった。
その住居というのがまさしく早川氏のいうヴィユ・パリの一角に位置していた。
グラン・ドゥグレ街 (Rue des Grands Degrés)
モンテベルロ河岸をアルシュベッシェ橋を右手に見て
そこから数百メートル進んだ左手を斜め一歩入った裏通り
角のこの建物が森有正氏の住んだアパート
"眼下にセーヌの流れる"というからには、おそらく上階に住んだと思われる
モンテベルロ河岸の向かい側の歩道よりアパートを眺める
(通りより少し引っ込んだ左手の壁に彫刻のある建物 )
森氏はこの住居から見える具体的なノートル・ダムの位置についてこう記している。
今これを書いている窓からは、外陣部の先が見える。隣の部屋へ行くと建物の半分位が見える。夜はほの暗く証明されて、細かい陰影が浮き出し実に美しい。 (森有正エッセー集成2ー砂漠に向かってー)
またこのアパートを見つけるにあたりエッセイ集成5の中でこのような内容を語っている。
要約すれば、パリの慢性的住宅難と年々上がり続ける家賃に苦しみ、それが健全な生活を営もうとする外国人にとってはさらに困難を極めることを嘆き、「月給の中で住宅費の占める割合がどんどん増す」または「自分も在仏の始めの10年間は随分苦労した」とも―。
しかしさる友人の世話で十年ほど前に恰好なアパートに入ることが出来たと喜びを語る。
場所はカルティエ・ラタンの近く、窓からノートル・ダムをのぞむセーヌの川岸である。大学都市、貸間、安ホテル、又貸しのアパートなどを転々としたあげく、やっと自分の住いに落ち付くことが出来たのである。(森有正エッセー集成2ー雑木林の中の反省ー)
さて、かっての森氏の住居と同じ場所に立つといってもまさかアパートに立ち入ることも出来ないので…
アパート前のカフェのテラス席に夕食がてら陣取ることに決めた。
森氏も折につけ何度となく利用したに違いないだろう。
だが時間が少し早いので、その前に近くのヴィユ・パリと言われる小路街を少し散策してみることにした。
再びこの界隈に住んだからこそわかるヴィユ・パリの魅力を森氏の文章から抜粋させて頂こう。
私の住んでいるグラン・ドグレ街から一寸歩くと、広場から真すぐにフレデリック・ソートンという街路がだらだら北へ下ってきて、ノートル・ダムの真横の対岸のケーに出る。数年前に保存地区に指定されたこの通りは一せいに改築がが始まって、汚れた古い家が真白い小奇麗なアパートや店に変化して行く。あと、二、三年すれば、見違えるように美しい一角になるであろう。古い建物の様式をそのまま残した改築である。すぐ隣の通りのコルペールもの館もすっかり新築が成ったし、反対の方にある、ユイスマンスによって丹念に描写されたビエーブル街も、二、三年つづいた工事の後、路面がすっかり新しく舗装された。(森有正エッセー集成5ーパリー)
この文章が初めて発表されたのは1967年であるが、半世紀以上経っても、
おそらくその頃と現在とは殆どその佇まいは変わっていないと思われる。
私がパリという街に魅かれるの理由の一つといってもよい。
ビエーブル街(Rue de Bièvre)
先の森氏の文章にあるようにこの通りは森氏のアパートから目と鼻の先の距離にあり、
昔この通りの下をビエーブル川が流れセーヌに注いでいた。
以前取り上げたギャルリー・デ・ゴブランを抱える国立ゴブラン織り製作所や
周辺の皮革工場などはこの川を利用して染色などを行ってきたが、
19世紀には川の水が汚れたために川は覆われ現在パリ市内は暗渠になっている。
早川氏の著書によれば、ビエーブル街が開通したのは1250年という。
フランス革命以後20世紀半ば頃まではホームレスやアル中たちが住みつくスラム街だったようだが、
その後一新してミッテラン元大統領がここに私邸を構え有名になった。
右手奥の白い建物がその私邸だった建物。(1972-1995年)
それにしてもパリに数ある通りの中でなぜわざわざこんな地味な狭い通りに住んだのか?
まさかノートル・ダムが目と鼻の先に見える場所だからというわけでもないだろうが。
他にも「神曲」で知られる詩人(哲学者、政治家)のダンテもパリ滞在時にこの一角に住んだ。
ノ~トル・ダムとヴィユ・パリ一帯
(赤印で囲ったのが森有正の住んだグラン・ドゥグレ街。緑で囲ったのがビエーブル街)
ところで先ほどの写真だが、通りの突き当たりに何か丸いドームのような屋根が見えなかっただろうか?
さらに写真を拡大してみれば…
いかがだろう!!
こちらの写真だともっとよくわかるはず…
そういえば昨年に同じくパリのブログを書いているMushaさんがこの件を取り上げていた。
ぜひ私のこの記事と合わせて御覧頂きたい。
https://ameblo.jp/harry993/entry-12350038425.html
で、このドームが何か皆さんもうお分かりかと思うが
そう、"パンテオン"なのである。
モンテベルロ河岸通りから直線距離で測ってみると500メートル程の距離だが、
何しろこのヴィユ・パリを含むこの一帯は無数の入り組んだ路地や小路が張り巡らされている。
モンマルトルのような高台からならわからなくもないが、
平地からその網の目を潜って見ることが出来るとは奇跡に近いともいえること
(ちなみに撮影はf私がいつも使用している普通のOLYMPUSデジタルカメラである)
こちらの地図でご確認頂きたい。
赤印で囲ったビエーブル街からパンテオンまで青の直線を引いてみた。
ビエーブル街を先へ進むとこんな看板の素敵な店もあった。
ギャラリー ビエーブル
再び先の森氏の文章でも触れられているように、
"古い様式の建物をそのまま残した改築の一環"として建てられたのだろう。
店は閉まっていたがどうやらここはステンドグラスの工房のようだ
ショーウィンドウに飾られた数々のステンドグラスの作品
個性的で繊細なデザインに思わず目を奪われる
最後にステンドグラスとショーウィンドウに映るビエーブル街の写真を撮ってみた
次回後編はヴィユ・パリの森有正が特別な関心を寄せたという教会と、
いよいよ森氏のアパート前のカフェ席に座ります。
よろしくお願いします