森有正の「言葉」に触れる | PARISから遠く離れていても…

PARISから遠く離れていても…

わが心の故郷であるパリを廻って触発される数々の思い。
文学、美術、映画などの芸術や、最近では哲学についてのエッセイなども。
時々はタイル絵付けの仕事の様子についても記していきます。

 『本離れ』という言葉を聞くようになってからもうどのくらい経つだろう。

 本当に昔に比べて人々は本を読まなくなったのだろうか?(私の言う本とはマンガ本の類を除く、文芸書一般のことを指す)

 実際にどれだけの数が減ったかは知らないが、少なくとも本屋の棚で自ら手に取り本を選んで買うこと自体は減少傾向にあるといえる。

 その証拠に町の小さな書店というものがここ随分と姿を消しつつある。

 自分の住む国立(くにたち) という町に関して言うなら、一橋大学が町のシンボルとなっていることもあり一応は文教地区という括りになっている。そのため本屋の数は決して多くはないが、一般の雑誌も含め文芸書や参考書などの品揃えが良い書店には恵まれているほうだとは思う。

 それでも自分が本当に読みたい一昔前の本などは古書扱いになっていてネット書店でしか扱っていないことが大半なのでそれを利用することとなる。(購入目的でなければ図書館で借りる方法もあるが )

 古本屋という手もあるが、その詰まれた数ある山の中から掘り出し物を捜すという目的以外は、ネット書店で検索するほうが目的の本に行き当たるのは何十倍も早いのが現実である。

 

 さてここら辺でこれを読んで下さっている本好きの方々にお尋ねしたいのだけど、町の書店の棚で読みたい本を捜す機会も減った現在、皆さんは、いえあなたはどうやって読みたい本を見つけますか?(手に入れるかではなく)

 その答えは人それぞれいろいろなケースがあるのはもちろん、情報収集の仕方も複数あるのが当然のことだと思われる。

 本好きの友人に勧められたり、××賞を取ったりで話題になった本とか、あるいは本屋の代わりに図書館へ出向いてなど…。

 非常に回りくどい言い方をしたが、自分が聞きたい(言いたい)のはそうやって見つけた本を読んだその結果が果たしてどうだったのか?

 その中でやはり読んでよかった~と言える本に数多く出会えればそれはとても素敵なことであるし、その人の以後の人生の何か指針となるような本に出会えればそれは願ってもない幸運といえよう。

 ただしこれは個人的な見解なのだが、それほどの本に出会える確立は、一生涯の親友や伴侶を見つけるのと同じくらいそう滅多にあるものではないような気がする。

 

 一つの例を挙げよう。

 その本に私が出会ったのは、先に挙げた町の図書館でだった。もう10年少しぐらい前になるだろうか。

 借りた本の返却か、リクエスト本を受け取りに行ったかの詳細は忘れたが、以前から読みたくて探していたものという訳ではなく、いわば偶然の産物だった。

 それは図書館の入口付近の「御自由にお持ち下さい」という貼紙のある棚の一列に、 歯の抜けたように乱雑な様子で置かれていた。

 図書館では古い本や雑誌などを処分する一環としてこのような試みを定期的にやる。最後まで引き取り手が現れなかった本は廃棄処分になるのだ。

 このような場合の通例としていつも一応はざっと棚の内容に目を通す。大昔に流行った文芸本、料理とか手芸の本、ハウツー本、趣味に関する本、新書や文庫本など雑多な本が脈絡なく並んでいるのが通常だが、多少古びていても興味ある人にとっては役立つのが本というものの真の姿なのではないか。

 残っていた本は数多くはなかったが、その中から一冊少し厚めの文庫サイズの本を手に取ってみた。

 

     

           『森有正エッセー集成Ⅰ』二宮正之編。ちくま学芸文庫

 

 森有正(もり・ありまさ)というこの作者の名前はどこかで聞き覚えがあった。パリに行ったままずっと向こうで暮らしている知識人という程度の認識ではあったが。

 2009年9月にNHKEテレ『こだわり人物伝』《森有正~かえっていく場所》を小説家の片山恭一の語りで放送していたので、もしかして御覧になった方もいるのではないかと思う。

 

  目次を開くと最初に『バビロンの流れのほとりにて』という題が目に飛び込んで何故かそれに心惹かれた。

 パラパラとページを捲りつつ著者あとがきに、題はパスカルの『パンセ』の一節から取ったと書かれているのを発見した。

 パスカルと聞けばまず「人間は考える葦である」という名文句や高校?の物理で習った「パスカルの原理」などを思い浮かべる人も多いと思うが、フランス17世紀の哲学者にして思想家、物理学者、数学者、神学者として偉大な知の巨人である。

 『パンセ』の意味はフランス語のpense(考える)からきていて思想や思考という意味を表しているということである。

 この中にはきっと自分にとって大切な知るべき事柄が求めている世界がある、と直感した私はそれをしっかりと抱えて持ち帰った。

 

その時からこの本は文字通り自分の魂の伴侶に…という言葉が大袈裟なら、人生の道標となる掛け替えのない一冊となった。

 

 これを書きながらー文は人なりーという言葉を突然思い出した。

 誰が言った言葉なのか気になり調べたら、18世紀のフランスの博物学者ビュフォンがアカデミーフランセーズ入会の時に「文体論」の演説として発した言葉だと出ていた。 と言っても決して難しいことを言っているのではなく、「文体は人間そのもの」つまり書き手の考えや性格、人となりをあらわすという意味であり、 技術だけではどうにもならない作者の息遣いや戸惑いなどが感じれる文体(文章)がいい!ということを言っているのである。

 自分がこの本を読んで感じたことはまったくその通りで、自身の心に忠実であろうとする生き方を選ばざるを得なかった森有正の思いや考え方、美意識などが素直な文章の中に力強くまた厳しくも自省しつつ語られていた。彼自身の個性というものが隠しようもなく透けてみえる文章であるとも思った。

 

 《森 有正について》

 ☆1911年東京に生まれ~1976年没。哲学者、フランス文学者

 ☆東京大学仏文科卒業。東京大学助教授を経て1950年にフランス政府留学生の第1陣として一年の予定で渡仏、そのままパリに定住する

 ☆その後東京大学の職を退職。パリでソルボンヌ、国立東洋語学校で教鞭を取る傍ら、デカルトやパスカルの研究、その他リルケや哲学者アランの翻訳などを手掛ける。

 ☆1968年に『遥かなノートル・ダム』で芸術選奨文部大臣賞を受賞。

 

 ※本書『森有正エッセー集成Ⅰ』に納められている『バビロンの流れのほとりにて』は1957年に刊行された。

  内容的には深い哲学的省察に満ちた思想的エッセーと日記が収録されている。

  このちくま学芸文庫<森有正エッセー集成>はシリーズで5巻まである。

 

 さて実際の内容について語るのはまたの機会に譲ろうと思う。

 今の自分にはまだ荷が重過ぎる気がするし、何から始めたらよいかも正直わからない。

 何度読み返してもその度に新たな発見と思いに包まれるいっぽうで、気持ちだけが高揚し言葉だけ上滑りする状態になりかねない気がするのを怖れてもいる。もう少し自分なりの言葉で語れるようになったらその時に少しずつ語るつもりでいるので。

 

 ただこのブログを訪問しせっかく興味を持ってくれた方々のために、一箇所だけ森有正の声を届けよう。

 森が1950年にフランス政府留学生として船でパリに向かう途中、経由地であるマルセイユの港のバーで友人にその時の心情を吐露したものである。

 

 …日本からここに着いたばかりなのに僕は日本へかえりたかった。パリへ行くのが恐くてたまらなかった。

 そこには必ず僕の手に負えない何かがあるような気がした。

 僕と一緒にマルセイユについたその友人は、戦前五年間フランスで美術史を勉強した人だった。

 その人は僕のいうことをきいてそれが本当だと言ってくれた。

 しかし日本へかえる旅費もなかった僕は、結局重い心を抱いてパリへ来た。

 僕はその時日本へかえってしまうべきだったのかもしれない。しかしパリへ来てしまったのだ。

 来てしまって僕の恐れていたことが本当だったということを骨身にしみて知ったのだ。…

 

 

それから森の自分自身を見つめる思索と葛藤の本当の旅が始まったのだった…。

 

 

 

 

よろしくお願いします

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