④(追記あり )マレに残る中世の面影を訪ねて。二コラ・フラメルの主邸を廻るもう1つの旅 | PARISから遠く離れていても…/サント・ボームの洞窟より

PARISから遠く離れていても…/サント・ボームの洞窟より

わが心の故郷であるパリを廻って触発される数々の思い。
文学、美術、映画などの芸術、最近は哲学についてのエッセイも。
たまにタイル絵付けの様子についても記していきます。

 

現存するパリ最古の民家であるモンモラシー通り51番地の『二コラ・フラメルの家』は

彼が貧しい人々を宿泊させるための施設として建てた多くの家の1つにすぎなかった。

 

それならば二コラ・フラメルの主邸はどこにあったのだろうか?

 

こうして記事を書きながらその疑問がずっと頭の隅にこびり付いていた。

本来なら従来の散策コースに戻り次の行き先について早く話を進めたいところだが…

そういう訳でもう一歩踏み込んで脇道への散策を続けようと思う。

ここまでお付き合い頂き彼に対する興味を持たれた方にはぜひ読んで頂きたい。

 

 

 

日本へ帰国する前日に訪れたのはここサン・ジャック塔である。

 

サン・ジャック塔  

  (※メトロのシャトレ<Châtelet>駅からすぐそば)

塔の高さは52メートル。ゴシックの最後の時期に流行したフランボワイアン様式の塔

 

 

サン・ジャック塔は16世紀初期、二コラ・フラメルの死(1418)より後の1522年に建造された。

フランス革命時に破壊されたサン・ジャック・ド・ラ・ブーシュリー教会の残存である。

ブーシュリーとは食肉業のこと。フラメルが生きたこの時代には肉屋がこの場所に売り台を並べていた。

現在では(聖ヤコブ)、サンティアゴ・デ・コンポステラへの大巡礼地路の集合、出発地点となっている。

 

また直接今回の記事の内容とは関係ないかもしれないが

17世紀(1648)にパスカルがこの塔に登って気圧の研究をしたことでも知られている。

 

ブレーズ・パスカル(1623~ 1662 )

フランスの哲学者にして、物理学者、神学者…などその才能は多分野に渡る

「人間は考える葦である」の言葉を残した

(上の写真の下の部分に少し覗いて見える)

 

 

クローバー

 

今は存在せぬサン・ジャック・ド・ラ・ブーシュリー教会の話に戻そう。

まずは下の地図を御覧頂きたい。赤の印で囲った辺りがその教会である。

 

1553年に出版されたパリ市とその郊外の地図

 

真中を縦に流れるのがセーヌ川、セーヌ川に向かって左側が右岸、右側が左岸。

セーヌ川の真中辺りにある島がシテ島(パリ発祥の地)で

 それらを取巻く楕円が当時の城壁である。   

ここでは大体の位置を知ってもらえればよい。

 

 

次にもっと細部をわかりやすくした地図を!

黄色の楕円で囲んだのが前の地図の赤い印。サン・ジャック・ド・ラ・ブーシュリー教会である。

 

1550バーゼル刊地図
 

 

さてなぜこの教会を取り上げたかというと、この教会はフラメルの生涯を通じて

最も縁が深かった場所といってもよく、同時にフラメルの主邸の鍵となるからだ。

 

参考文献によれば…

”彼の住まいがサン・ジャック・ド・ラ・ブーシュリー教会のほぼ目の前にあり、

1389年に彼自身が新しい正面玄関を建造させた”ことがわかる。

 

 

この正面玄関入口のテュンパヌムに刻まれた彫刻

 (※テュンパヌムとは建物の入り口上のアーチ型の装飾的な壁面のこと)

 

聖母マリアの両側に跪くフラメル(左)とベルネル(右)

聖母は幼子イエズスを抱き、フラメルの脇には聖ヤコブ(サンティアゴ )、

妻ペルネルの脇には洗礼者ヨハネが刻まれている。

(1389年当時は妻のぺルネルもまだ生きていた)

これはフラメルとベルネルにとって生涯の記念となるべく

『寄進者像』として創られたものだという。

すでに説明したとおり、フラメルはモンモラシー通りの”レストラン”以外にも

この教会の飾り付けなどにも出費しているし、施療院やあの国立工芸学校の前身であった

サン・マルタン・デ・シャン教会の建造にも貢献したと見られる。

 

クローバー

 

主邸はサン・ジャック・ド・ラ・ブーシュリー教会のほぼ目の前にあった…

さて、この事実で良しとすべきだろうか?

だが、ほぼ目の前とは少しアバウト過ぎはしないか?

そんな私の思いに応えるようにさらにページを捲っていくと

なんとマリヴォー通りとエクリヴァン通りの角にある”という具体的な記述を見つけた。

 

や っ た ぁ ~♪

 

さっそく先ほどのバーゼル刊の地図(黄色の印をつけたもの)を再び見てみるが見つからない。

中世フランス語で書かれた地図では通りの名前がよくわからないのだ。

 

その後再びいろいろ当たってみてやっと通りの名前が記された地図を捜しあてた。

それがコチラである。

 

1750年シャトレ地区の地図

(※fichier:quartier du châtelet, 1750.jpg — wikipédia)

 

黄色の縦線がマりヴォー通りで同じく横線がエクリヴァン通り。

その2つの線が交わるところの赤い印が二コラ・フラメルの主邸ということになる。

関連部分を拡大してみるとわかりやすいだろうか。

 

 

拡大すると文字がボケるが通りの名前がしっかり記されている。

横線のエクリヴァン(書生)通りは1856年におそらく現在のRivoli通りに吸収され名前が消えている。

マリヴォー通りについてははっきりしないが、現在のパリ4区のこの辺りの地図を見ると

同じ通りとおぼしき場所にRue N.Flamel(二コラ・フラメル通り)というのが存在するので、

もしかしたら名前を変えたものかもしれない気がするのだ。

※追記 フラメルの妻のベルネル通りも発見したので地図に記した。

知人に言われて気付いたのだけどこんなそばなのに何故気付かなかったのか不思議。

 

というわけで地図を差し替えましたびっくりマーク

下差し

赤で囲った部分がベルネル通り

サン・ジャック・ド・ラ・ブーシュリー教会のあった敷地に対して

2人の通りが交差して十字架のように見えるのは私の思い過ごしだろうか。

 

 

:今のパリ4区サン・ジャック塔付近の地図

 

 

フラメルのこの主邸の正面も、モンモラシー通りの家と同様に

彫刻や銘文で飾られていたという。

下差し

”財に欲々たる者、何も持たずして満たされることなし”

 

クローバー

 

これで主邸の問題も解決し終わりとしたいところだが最後にもう1つ。

サン・ジャック・ド・ラ・ブーシュリー教会はフラメルの生涯を通じて

最も縁が深かった場所と言った事を覚えているだろうか。

その言葉どおり彼は死後に遺言書に記されたようにこの教会の敷地に埋葬された。

教会身廊の端、聖母の十字架像の前に。

彼は死の前に自分自身で墓石を用意していて

残念ながら今回は行けなかったがその石は現在、クリニュー中世美術館に所蔵されている。

 

 

クリュニー美術館に所蔵されているという石に刻まれている絵図と言葉

 

上段には聖ペテロと聖パウロの間に父なる神が刻まれ

下段には自身の屍骸像が刻まれている。

 

①から③に書かれている内容については下に記すとおりである。

 

    ①銘文 

      "かって書生でありし故二コラ・フラメルは、遺言にもとづいて、この教会財産管理会に、

      いくばくかの年金、慈善事業のために生前に購入したいくつかの家屋敷、毎年「三百人

           館 盲人院に施しとしての銀貨、慈善病院やパリのほかの教会と施療院を遺贈せん。

           死者たちのために祈りたまえ。"

 

           ②故人の口からの吹き流し

      "主なる神よ、汝の憐みを望みて"(慣例にならったラテン語文 )

 

     ③フランス語で記された言葉

      "我出でし土に再び返る、魂は、罪深いものを許し給う汝イエスへと向かわん。"

 

これらの墓石については、錬金術的解釈をされることもあるようだが、

シリーズ最初の方でも述べたように、それについて云々することは

今回の私の目的とするものではないので控えることとする。

 

 

クローバー

 

これで二コラ・フラメルの家と主邸を廻るもう1つの旅は終わることにするが、

これまでお付き合い頂いた方々はどういう印象を持たれただろうか?

 

 

 

 (参考文献)

 ニコラ・フラメル錬金術師伝説/ ナイジェル・ウィルキンズ(小池寿子訳)白水社

    フランス中世歴史散歩/ レジーヌ・ペルヌー/ジョルジュ・ペルヌー(福本秀子訳) 白水社

絵解き中世のヨーロッパ/ フランソワ・イシェ(蔵持二三也訳) 原書房

中世の秋(上・下)ホイジンガ(堀越孝一訳) 中公文庫

 

 

 

よろしくお願いします

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