管理側の手配ミスという偶然の成り行きから、パリのアパルトマンの一室で顔を付き合わせる破目となった中年の男と若い女。それがきっかけで二人は愛欲の世界に溺れる関係となっていく…といえば、ベルナルド・ベルトルッチ監督の仏映画<ラスト・タンゴ・イン・パリ>であり、1972年の公開後は本国以外にもセンセーショナルな物議を醸し話題となった。(日本公開は翌年。私が観たのは大分後の二番館でだが大好きな作品の一つである)
今回は残念ながら映画の話ではなく、偶然の成り行きというものがもたらしたちょっとした旅の一コマと言っていいのかもしれない。そんな経験は一人旅をしたことのある人ならばひょっとしたら誰にでもありそうな?…。
それまでの一人旅では、限られた予算内で一日でも多くパリに滞在するために中心地から離れたホテルを選んできた。もともと賑やかな場所より落ち着いついた雰囲気の庶民的な場所に泊まりたいという個人的志向も手伝って。
けれども今回の滞在先に選んだホテルはパリ1区、ルーブルやパレ・ロワイヤルまで歩いて5分とかからない中心地にあった。
旅の前半に、左岸14区のほぼパリの外れの環状線に近いシャンブル・ドットというフランス版ホームステイ先に滞在する予定になっていたため、後半の滞在先は右岸にしようとなんとなく決めていた。それで送迎を頼んだ旅行社に当たってみたところ中心地にしては割安なホテルが見つかったので一か八かの賭けにでることにしたのだった。
こじんまりして年季の入った古ぼけた外観は、最初からパソコンの画像で確認済みだったのでなんと言うこともない。受付を行うフロントとロビーの狭さは画像より一段と縮小された感じだったが、まあこんなものだろうかと思った。それがロビーという名に値するかは別として。
大きな鳥籠のようなトランクを載せたら一人がやっとと思える手動式のエレベーターに乗り込み、部屋に着いたときには思わず溜め息をもらした。
――ああ、ここで1週間寝泊りするのだなあ~。
まず目に付いたのは部屋の大きな面積を占める壁紙の柄と安っぽい色合いだった。ストライプと花柄とが混じったパステルカラーで、無地であればまだましであったかもしれない。
備え付けのベッドはというと、どういうわけかシングルにしては大きすぎるいわゆるダブルベッドだった。まあ、大きいに越したことはないかと思い直すも、またしても気になるのは壁紙と同じように掛け布団の仰々しいしつこい感じの花柄だった。ゴブラン織りのようにカーテンなどにしたほうがよっぽど合いそうな感じの。
しかたがないかとそれにも目を瞑る事にして、飛行機での長旅の疲れを覚えた私は掛け布団を捲り一休みしようと大の字に横たわった。
身体が深くベッドの底に波を打って沈んでいく感じは、ハンモックのようだ。
そのせいで寝返りを打とうにも身体はすぐに仰向けの状態へと押し戻されてしまうのだった。
――やれやれ、でも慣れるしかないか~。
欠点ばかり挙げたっていまさらどうにかなるわけでもない。
それならどこかいい所を見つけてやろうじゃないか。
うん。そういえばこの部屋の大きさだが結構広いじゃないか。ダブルベッドがこうして置かれても残りのスペースはまだ悠々としているし、それにバスルームもシャワーだけど広く出来ている。
何よりも絶対忘れてはならないのはこのホテルの立地条件の良さ。
お気に入りのパレ・ロワイヤルがすぐそばだし、何といっても一番はあのギャラリー・ヴェロ=ドダとここが目と鼻の先の場所にあるということだ。(路地は一本横だが、おそらく屋根裏から見ればほとんど隣接しているといってもいい)
そうだ。私がこのホテルを選ぶ決め手となったこの理由。
何物にも変え難い大切な私自身のraison d'être(存在理由)と言っても決して過言ではないのだ。
住めば都という言葉があるし、美人は三日で飽きブスは三日で慣れるともいうように(真意はわからないが)その部屋にも慣れてきた数日後の朝のことだった。
私は螺旋階段で階下へ降りようとしていた所を、踊場で思いがけぬ人とばったりと出くわした。その男の人は上の階からトランクを引っ張って運ぼうとしているらしかった。
――どこかで見た顔だけど、パリに知り合いはいないし…。
と、一瞬考えているうちに向こうのほうから声をかけてきた。
「あれ、こちらに泊まっていらしたのですね」
「どこかでお会いしましたよね。ええと…」と言いながら私ははっと思い出した。
行きの空港からの送迎で一緒になった人だった。
旅行社の手配した小さなバンに乗り込んだ客は運転手と添乗員の他に私たち二人だけだったし、その人はパリが初めてらしくしきりに添乗員の女性に質問をしていたので印象に残ったのだろう。
「今日の夕方には日本へ帰るので、フロントに荷物だけ預けようと思いまして。ここのエレベーターはちょっと苦手で」
自身のトランクにちらっと目をやりつつ照れたような表情を浮かべた。
年齢は40歳前後だろうか。イケメンという感じではないが人の良さが目元に滲み出ている。
「こちらのホテルはいかがでしたか?」と私。
「まあ、この料金ですしね。僕は一つ上の階でしたが、実を言うとホテルの部屋の手配ミスで結局は一番良い部屋を割り当てられましてラッキーでした」
「いちばんいい部屋?」
「予約はシャワーのみの予定でしたが、バスタブも付いていて実に広々とした部屋で」
やはりバスタブの部屋はあったのだ。問い合わせてもないと言っていたのに。
それともこちらの料金的なものだろうか。それならしかたないが。
「そちらはこれからどこかへ行かれる予定ですか?」
「ちょっと行きたい場所があって…」そう、私には目的があったのだ。ぜひ訪れたい場所が。
「あの、立ち話もなんですので、ひとまずコイツを下へ下ろしますね」
彼がフロントに荷物を預けた後で、私たちはまるで歯医者の待合室のようなスペースに置かれた一脚のソファーに腰掛けて雑談を交わした。
彼は広島のほうで自営業を営んでいるということだった。これから午後3時ぐらいまでは特別予定も決めていないようで、ホテル近辺をブラブラしようと考えていると話していた。
「それじゃあ、いつまでもお邪魔をしちゃ悪いですから」
その自身の言葉を機に彼は席から立ち上がり、じゃあと片手を挙げた。
その言葉に背を押されるように私も軽く会釈をし、出口の方へと向かった。
ドアの前で私は背中に視線を感じて振り返った。
立ったままの姿勢でこちらを見つめていた彼と目が合った。
「よかったらその辺でお茶でもどうですか?」
その誘い方もごく自然な流れの中で行われたので、断るほうがむしろ不自然という気がした。
嫌な感じではないし、彼だったらもしかして…近くのカフェに移動するわずかな距離と時間の間に、私の頭にある考えが閃いた。
(続く)