セーヌ通り。ギャラリーで一つの彫像に出合う(6区) | PARISから遠く離れていても…

PARISから遠く離れていても…

わが心の故郷であるパリを廻って触発される数々の思い。
文学、美術、映画などの芸術や、最近では哲学についてのエッセイなども。
時々はタイル絵付けの仕事の様子についても記していきます。

 

 パリの旅でいちばん心ときめく瞬間はなんだろう。

 

人それぞれ、回数や滞在日数によっても違うだろうが、全くの行き当たりばったりでという方はそう多くはないはずだ。漠然とでも予定というものを頭の中に思い描くか、きちんと計画表なるものを練って…というのが一般的なのではないか。

  その上で、行きたかった場所へ行き、欲しかった物を買い、やりたかったことを無事やることができた瞬間に満足感と充実感とを味わうことができる。

  どちらかといえば、自分は計画表を練るタイプである。(練り上げるとまではいかないけど)でも旅には少し未知の部分があったほうが面白いし喜びも大きいのかとも思っている。要するにト・キ・メ・キの部分のことを言っているのだ。

 

セーヌ通りをご存知だろうか。

  メトロのサン・ジェルマン・デ・プレ駅からすぐ、歩いて5分もかからないはずだ。サンジェルマン大通りをオデオン駅方面へ歩くと交差点にぶつかる。それがセーヌ通りで左側に折れるとセーヌ川方面へと向かう道が続いている。道幅が確か結構狭くて、両側にギャラリーが立て続けに幾つも並んでいる。

  <ギャラリー通り>という別名があるのか定かではないが、東京銀座のギャラリーみたいに広範囲に跨ってはいないので見やすい。

  美術が好きで、ルーブル、オルセーその他の主な美術館を観終えて日程に余裕がある方に、また入場料もいらないのでぜひおススメの場所だ。

 

              葉っぱ  


    これは2008年当時に初めてパリ一人旅をした時の話である。

セーヌ通りのギャラリーに一度行って見たいとは思っていた。

  午後からなら開いているという情報だけを頼りに行ってみようと決めた。

  通りを歩き始めたが、少し予定の時間より早く着いたせいかまだドアが閉まったままの所が多く(午後3時前位に開く所が多いようだ)、開いている場所をみつけては外から様子を伺うという感じで、最初は両側をジグザグに歩きながらウインドウショッピングする要領で眺めていった。

  ギャラリーだから光を取り入れる性質上、ガラス張りで外から展示作品の雰囲気がなんとなくわかるのがいい。

  しばらく行くと、とあるギャラリーの入り口付近に貼ってある一枚のポスターが目に留まった。

 

それがこれである。

 



   

――な、何なのだ。これは?!

 

私はそのポスターの写真の前に釘付けになった。

 このような彫刻作品を目にしたのは初めてだったから。

 

この塊(かたまり)。荒削りで力強くどっしりとして、まるで一塊の岩のような圧倒的な重量感!身体の大きさに比べて小さすぎる頭部が付いているので、これがただの塊ではないともちろんわかるにしても…。おそらく後ろからこの像をみたとしたら、これはただの塊として認識されるだろう。

  私はぜひ本物を観てみたいという衝動に突き動かされギャラリーのドアを開けた。

 「ボンジュール」

  係りと思われる30代位のメガネを小粋にかけたいかにもパリジェンヌ といった知的な感じの女性が、ちらっとこちらに穏やかな視線を投げかけた。

  数人の客が思い思いに作品を鑑賞していたので、それに混じってかえって緊張することなく例の本物をいろいろな角度から眺めることができた。

  実物はポスターの写真のイメージよりも少し小さく感じたものの、生で観るその立体感の迫力には圧倒された。

個展なので似たような雰囲気の作品が他に幾つかあったと記憶しているが、やはりこの作品がいちばんだと思った。

 …気がつくと他の客の姿は消えていたので、私は思い切ってチャンスとばかりに係りの女性に話しかけようと試みた。何かこの作家のことについて知りたいー。私を突き動かしたのはただそれだけの思いであった。だがフランス語も英語も心許なく旅行会話程度がやっとの自分の実力では、思うような意思疎通が期待できるはずもない。

 

「素晴らしい作品ですね!」

 例の作品を指差しながら簡単なフランス語でそう言ったものの後が続かない。せめてこの展覧会のカタログでもあればと思ったが、残念ながら売ってはいないという返事だけは何とか聞き出せた…。

  (注*作者の名はジャン=ミッシェル・ソルベ。これを書いている現在、ネット検索してみたが、情報を見つけることができなかった)

 

 

                      葉っぱ  


 

 いったい彫刻とはなんだろう。自分にとっての彫刻とは?

 

長い間、彫刻というものは苦手だった。

   彫刻といえばまず思い浮かべるのがギリシャ彫刻であり、その流れの延長線上にあって近代彫刻として思い出されるのは、やはり<オーギュスト・ロダン>の彫刻であった。

   ロダンの作品は東京で過去に開催された展覧会や他の美術館の常設展示などでもちろんある程度は観てはいた。確かに凄いなーとは思う。身体の筋肉と構造を知り尽くしたダイナミックな表現力の前ではただ平伏すしかない。神の手を持った巨人。

  

 いつだったのか覚えていないが大分昔、そんな今までの彫刻に対するイメージを払拭するような作品に出合った。

 

 それがこれだったように思う。



 

     腕のない細い女(1958)  *箱根彫刻の森美術館
 

 

  知る人ぞ知る<アルベルト・ジャコメッティ>の彫刻である。

 

ロダン(19401917)が主に19世紀の巨人であるなら、ジャコメッティ(19011966)は20世紀の巨人というに相応しいかもしれない。

 

初めてこの作品を見たときにもやはりこう思った。

 

――な、何なのだ。これは?!

 

 この針金のように細く長く引き伸ばされた身体。極限までに余分なものを削ぎ落とされた身体。これも彫刻なのか…長いことその場に張り付いたように離れることができず、穴があくほど見つめていたような気がする。

 

 まさにそれと同じような驚きと興奮とを、セーヌ通りのギャラリーで偶然見つけた写真の彫刻作品に対しても覚えたというわけなのだ。

 ところが今回この記事を書きながらいろいろと調べたり考えたりしている最中に、さらに面白い事実を発見した(これはあくまでも私独自の解釈だということを最初に断っておく)。

 

 

 ディエゴの胸像(1954)ブロンズ *豊田市美術館

 

  

 

  これもジャコメッティの作品で、弟のディエゴをモデルにしたものであるが、よく観察してみると例のセーヌ通りの作品との共通項を非常に多く感じてならないのだ。

 身体を塊で捉える方法とヘラや指跡を敢えて残したテクスチャーの感じがそう思わせるのか?

 

 
 

   ディエゴの胸像   画像www.ate.org.uk

 

前からだと塊に見えてもやはり横からみると

こんなに(細く)薄べったくジャコメッティ

らしさが表れている。*上の正面写真とは別のもの

 

 

  作者であるジャン=ミッシェル・ソルベ氏にとっては、彫刻を創る上で大先輩の巨人アルベルト・ジャコメッティの彫刻というのは、当然意識せざるを得ないものであったろうしそれは必然的とも言えるだろう。

  その結果として出来上がったのが例の作品であったとしても、自分のモノとして消化し立派なオリジナリティー溢れる作品として成立しているという点でやはり素晴らしい。

  そのような私の独善的解釈など脇に置いておいても、少なくとも偶然の出合いにより私という一人の人間の心をト・キ・メ・カ・セ、熱く興奮させた事実が全てを物語っているではないかー。

 

 

                       おわり

  

 

 

 お 知 ら せ指差し

 

これも偶然なのですが、アルベルト・ジャコメッティの展覧会が近々、東京にて開催されることを知りました。→ 6/14(水)~9/4()

 (国立新美術館の開館10周年記念の催しだそうです)

 その後は10/14より豊田市美術館へと巡回する予定になっています。

 

 

 

ということで、今回少しだけ触れたジャコメッティについては、また改めて取り上げたいと思いますので、ご期待下さい!!よろしく