ロベール・クートラス展(アサヒビール大山崎山荘美術館) | PARISから遠く離れていても…/サント・ボームの洞窟より

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わが心の故郷であるパリを廻って触発される数々の思い。
文学、美術、映画などの芸術、最近は哲学についてのエッセイも。
たまにタイル絵付けの様子についても記していきます。

昨年の12月の下旬に入った頃に1泊2日の日程で京都へ出かけた。

いちばんの目的は以前から一度行ってみたいと思っていた、アサヒビール大山崎山荘美術館を訪れることだった。

読者になっているここあさんのブログ記事で紹介されたのがきっかけだった。

昭和初期の洋風モダンな建物と建築家安藤忠雄氏による現代的な空間や眺めの良いテラス、庭園など見所満載の美術館の建物全体にまず魅かれたのだ。

ご興味を持たれた方はぜひここあさんの記事と併せてご覧頂きたい。

 

                  このトンネルを潜りまずは美術館の庭園へ

 

           少し小高い場所にあるせいかこの時期でもまだ紅葉がちらほらと…

 

 

                    「ボールをつかむ鉤爪の上の野兎」

ハリー・フラナガン 1989/90 ブロンズ

 

 

 

大山崎山荘の全景

 

何かと物入りで慌しいこの時期をわざわざ選んだのにはもちろん理由があり、それは開催されたばかりの開館20周年記念イベントが目的だった。

      

 

 

 

      ロベール・クートラス 僕は小さな黄金の手を探す   

 

 

クートラス(19301985)はパリ生まれの画家2015年に没後30年を迎え、今回はフランスに続く日本での回顧展である。一時は現代のユトリロやベルナール・ビュッフェとも評された。

けれども意外とご存知ない方も多いのでは?そういう私もこの画家を知ったのは偶然によるものであった。以前親しい友人が麻布十番に住んでいて私はよく彼女の所へ遊びに出かけ近所を散歩した。この界隈は小さな坂が多く裏通りの道は人も少なくオシャレでモダンな建物が多いので、それを見つけたりすることが楽しみであった。

港区麻布台にあるGallery SU

昭和11年頃に集号住宅として建てられた木造の洋館もそんな中で出逢った隠れ家的な心ときめく建物の一つであった。今から56年前のことだと記憶しているが、ギャラリーの扉の向こう側には一見するとタロットカードのような小さな作品が、このようなこじんまりしたスぺースこそ自分に相応しい場所と心得ているかのように、その空間に馴染んでいた。

それがクートラスとの出逢いであった。

(※こちらのギャラリーではクートラスの作品を中心に取り扱っているそうだ)

 作品を見終わった後、どこか心に引っかかるものがあり、それを確かめるようにこの画家について書かれたという本を求めた。

 

 

株式会社リトルモア2011.11.25発行

 

 

それではまず本の中から作品を一挙に紹介しよう!!

タロットカードぐらいの大きさというから

写真は実物大くらいだろうか

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

            これらの作品達はカルト(carte=仏語でカードの意味)と呼ばれる。

 

 

 

 

カルトのためのデッサン

 

クートラスはいつでも毎日暇さえあればどこででもデッサンをした

 この他にも油絵、グアッシュ、テラコッタなども制作したが、

こうしたデッサンを見ると、やはり彼はデザイナーとしての

センスが群を抜いていたように思う。

 

 

 

クートラスの個性、あるいは代名詞とも言えるカルト。それにしてもなぜこんな小さな作品ばかりを作りつづけたのだろうか。

カルトの素材には何を使っているのか。

最初Gallery SUで目にしたときは、木片、板切れに描いてあるもののように見えたのだが、実はそれは街中に落ちているまたは捨てられているゴミの中から拾ってきたボール紙を小さく切ったものであった

彼は画材代にも事欠くほどの暮らしをしていたのだ。キャンバスの替わりにボール紙に油絵の具を厚塗りしたものをベースとし、削ったりヤスリをかけたりアイロンをあてたりして使ったのである。絵の具も少量で済むし、その他にクルミ染料とか赤チンなども使用した。

作品に対する彼の情熱は激しく、毎夜日記をつけるように一枚のカードを描き続けたという。その数は実に6000にもなる。

彼の才能はリヨンで石工の仕事に付きながらもアーティストを目指した美術学校時代の頃から、周囲に早くも認められてはいた。28歳でパリに出てからもすぐに画廊との契約も決まり順調な滑り出しのようにみえたのだが、結局は自由を縛られる生活に嫌気がさし、その結果として不安定な貧しい生活を自ら選ぶこととなったのだ。

そして貧しさから始めたカルトの制作であったが、彼にとっては自分の闇や孤独を生き抜くために重要なものとなっていったのだ―。

 

 

この本の著者の岸真理子・モリアさんはクートラスの晩年に寄り添い、彼の死後に遺言で作品の「包括受遺者」となった。クートラスは作品を売ることも散逸させることも許さずに彼女に全てを託したのだ。

「もし僕に何かあったら、

         ドアを蹴破ってでも(作品を)出してくれ」

生前に彼女に向かって彼はそう言った。

彼の部屋の鍵を持っていない彼女が、おそらく歯がゆくも噛み締めたであろうその言葉が私の胸にも突き刺さるようだ。

フランスでは、一人暮らしで看取るものがいないまま亡くなると、警察から直接に住んでいた地区の裁判所の係りまで連絡がいく。その後は相続などの手続きが終わるまで住まいも封印されてしまうのである。

今回は触れないが、この本には真理子さんとクートラスの恋愛だけではない複雑な男と女の心模様が語られていて実に興味深くもある。

      

 

  彼が作品を創り最後まで暮らしたヴォージラール通り226番地(15区)

(18世紀の宿屋の3階の袋小路に面した部屋に住んでいた)

    

2009年に私が宿泊したセーブル・ルクルブのホテルから

わりと近い場所にあり、藤田嗣治の足跡を尋ねて見つけた

シテ・ファルギエールからもそんなに離れてはいない気がする。

 

 
 
現在は昔とは変わっているだろうが、彼の部屋からは
彼が敬愛しマドモワゼルと呼んだエッフェル塔がよく眺められた

 

 

 

 

最後に大山崎山荘美術館のカフェから

クートラスのケーキセット!!

OK濃厚でなかなかの美味 

 

 

   ロベール・クートラス 僕は小さな黄金の手を探す

      (後期)現在開催中!2017年1月31日~3月12日(日)迄