7/14パリ祭という名の革命記念日に | PARISから遠く離れていても…/サント・ボームの洞窟より

PARISから遠く離れていても…/サント・ボームの洞窟より

わが心の故郷であるパリを廻って触発される数々の思い。
文学、美術、映画などの芸術、最近は哲学についてのエッセイも。
たまにタイル絵付けの様子についても記していきます。

 7/14はフランスにとって一年で最も大切な祝日、フランス(共和国)建国の日である。というよりも日本ではパリ祭言ったほうがピントくるだろうか。

 シャンゼリゼで行われる壮大な軍事パレードや航空ショー、夜空に打ち上げられるエッフェル塔の華麗な花火…日本でもTVニュースの映像などでご覧になった方も多いと思う。

 当たり前のことだが、このお祭りはフランス革命を抜きには存在しない。

 パリ祭とは要するに革命記念日なのだ。


 2008年、初めての一人旅に選んだ季節は夏、ちょうど現地でその祝日を迎える日程を組んだ。

 実を言えば自分はパリの芸術や文化に興味はあったものの、恥ずかしながら歴史というものにまったく疎かった。だがこの旅行計画を準備期間中(潜在的期間としては5、6年ほど)に、フランス革命や歴史についての本にも何冊か目を通した。せっかく久しぶりにフランスへ行くのだし、できればこの機会に少しでもパリ祭の雰囲気を身近に味わいたいという気持ちがあったのだ。

 前置きはこのくらいにして…。

 ノートルダムのあるシテ島を訪れることはあっても、今までだったら決して足を向けることのなかった場所、この記念日に最も相応しいと思える場所へ出かけることにした。


 コンシェルジュリー(かっての牢獄)だ。

 


   
 1789年のフランス革命の後で恐怖政治の時代が訪れた。革命裁判所が設けられ14世紀後半から牢獄として使われるようになったその場所は、 シテ島の西側、セーヌ川ロロージュ河岸にある。

 道の正面に見えているのは最高裁判所。その左手に見えているのは空を突き刺すようなゴシック建築の塔を持つサント・シャペル教会。コンシェルジュリーは同じ敷地内の一画にある。



     

 入り口はわかりにくい、というか間違えやすいので注意が必要かもしれない。

 行列が出きていたのでたぶんここだろうと後ろにしばらく並んでいたが、どうやら、サント・シャペルに並ぶ列だとわかった。向かって右側のほうがコンシェルジュリーの入り口になる。こちらはサンと・シャペルと違って並ばずに入れる確立が高いようだ。


       
   コンシェルジュリーの内部(パンフレットより)

 今、手元にある資料はこのフランス語の無料パンフのみ。

 当時の自身のメモによれば、―日本語のパンフレットが置いてある―と書かれているので、現在手元に見当たらない所をみると購入はしなかったのだろう。少し後悔している。

(注 ※他の方が書いている記事の写真にこの資料の日本語版があるのを見つけて、もしかすると私の記憶違いで日本語版を入手したのにみつからないという可能性もある。)



 
 

 入り口を入るとすぐ天井の高い大広間がある。14世紀に建てられここは<憲兵の間>と呼ばれ、兵士たちの食堂として使われた。

 大広間を抜け2階に上がると、<革命の間>と呼ばれる部屋がある。

 ここにはフランス革命後に処刑された2780人(ウィキペディア参照)の名が刻まれたボードが…。ルイ16世とマリー・アントワネットの名ももちろんその中にある。他にはダントン、ロペスピエールなどの政治家の名も…。

 が、大半は一般市民、貴族、学者たちであった。

 


       

 何と言っても見所は<マリー・アントワネットの独房>だろう。

 マリー・アントワネットが投獄されたのは1793年で、幽閉されていたタンブル塔から移され2ヵ月半ここで囚人として過ごした後、コンコルド広場の断頭台で生涯を閉じた。

 

 質素に見えても、机や椅子などの家具付きである。牢獄に入るにはお金が必要で、特に独房となればある程度お金がないと入れず、貧しい囚人は藁が敷かれた大勢の雑居房で不衛生な環境におかれていた。
 マリー・アントワネットのベッド。


  
 先ほどのアントワネットの独房。彼女の後方にあるブルーのものは衝立であり、これが唯一の彼女のプライバシーを守るものだった。

  
 衝立のすぐ向こうには、2人の見張りがいる。椅子に腰掛けている方の手元に注目。おそらくこうしてトランプなどで暇つぶしをしていたのだろう。

 



8<女たちの中庭>と呼ばれる、処刑前の待合室となった場所。




 

 <女たちの中庭>にある女の囚人たちが洗濯をした流し台。





同じく<女たちの中庭>にある。この石のテーブルの上で食事を摂った。





 ここの門を最後に出ると、再び生きては戻ってこられなかった…。




 実はこの場所を訪れたのは、7/14の前日である。

15日当日は午前中に軍事パレードが行われるシャンゼリゼ一帯は交通規制が敷かれ、バスやタクシーもストップするし、関連するメトロも全面閉鎖になる。

そればかりか祝日であるため、ほとんどのお店も閉まってしまう。

 夜は夜で深夜11時過ぎに行われるエッフェル塔の打ち上げ花火の時間帯は同様に、周辺地区は車両通行止めになるし、メトロも夜8時以降は全面閉鎖という具合なのだ。

 私が宿泊しているホテルがシテ島まで歩いていける距離にあれば別に当日でも構わないのであるが(コンシェルジュリーは開館している)、私のホテルは20区、ヴァンセンヌの森も近いパリの外れにある。
 時間の合間をぬっていけない事もないのだが、わざわざその時を選ばなくともいい気もしていた。

 

 祭典の儀式が光であれば、コンシェルジュリーはその影の部分だ。どちらか一方だけで存在することは決してあり得ない。

  

 それでは当日、パリ祭の光の部分の雰囲気というものを私は味わうことは諦めたのだろうか?


 その答はここにある。

 深夜ホテルの部屋のテレビで、シャン・ド・マルス公園からライブコンサートの中継を流していた。端から端まで埋め尽くされた人、人、人。

素晴らしい歌に演奏の数々。

肌の色や髪の色の違いも関係なく、この日ばかりは同じフランス国民として一つになる日。フランス革命により手に入れた自由><平等><友愛>の理念のもとに。



 以下、非常に見苦しい画像とは思うが、どうかその雰囲気だけでも感じとっていただければ…。


 


















フランス人でもないのに、テレビを見ながら「フランス建国おめでとう!!」

と心の中で叫んでいる自分がいた。


いろいろなことがあったけど、フランスは今年もまた7/14を盛大に祝うだろう。


 



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