二十世紀初めの物語なのに、あまりにも女性の地位が低く、動物のように暴力的に扱われていることに衝撃を受ける。
日本を考えれば、明治末期なので、女性を巡る状況は同様だったろうが、アメリカではさらに黒人差別が加わって、女性であること、黒人であることで、二重に差別を受けていたことの悲劇が伝わってくる。
ジョージアの田舎とはいえ、主人公のセリーは、父親の子どもを宿す。それも、二人とも、すぐに取り上げられ、他人の子どもになってしまう。その後、父親の命じるままに、子供のいる男の妻になり、さらに、この男はDVという言葉では表せないほど、セリーを気分の赴くままにぶちのめす。
暴力で妻を支配することが代々受け継がれてきている社会。女たちもそれが当然として、あきらめて受け入れる。見ていて苦しくなる展開だ。
そんなセリーは暴力や邪険なふるまいにじっと耐えて生き続けるが、自由に生きる友人のシュグという女性歌手や、義理の息子の妻、ソフィの振る舞いを見て、少しづつ自由に生きることを考えるが、夫のもとを飛び出すまでに、三十年くらいかかるのだ。
最終的には離れ離れになっていた妹と40年ぶりくらいに再会し、取り上げられた自分の子どもとも会え、自分を虐待した父親の遺産で、店を手に入れ小金を貯め、、暴力夫とは和解して、孫に囲まれめでたしめでたし。
辛い仕打ちに耐え続けるセリーが幸せになってよかったけれど、彼女みたいな人生は例外であったろうと思うと、この結末はラッキー過ぎるという思いがよぎる。
映画には冒頭から教会やら、歌を捧げるミサではゴスペルが流れ、セリーも、熱心に神に祈る敬虔な信者だ。あまりも理不尽な人生に神を疑いもするけれど、ラストの木の下の神々しさ宿る宴会は、神の恩寵の賜物であるとの印象を強くする。
その印象を抱いた理由。
フェミの視点で描いた物語なのに、セリーの決断する当たりの心理がはっきりしない。セリーと、歌手のシュグとの関係は、シスターフッドであるのだろうが、そのあたりが曖昧。シュグの家に引き取られた後の生活や心理が描かれていなくて、唐突に父親が亡くなって店を継ぐ展開になってしまって不消化。
歌やダンスがたくさん入るのだけれど、何となくインド映画みたいで、笑ってしまった。もう少し、どうにかならないかと感じてしまったけれど、この物語がミュージカル化されることで、多くの国で、人びとが女性差別に留まらず暴力や、外国人差別等について、考えることができるのでしょう。
いろいろ書いたけれど、見ごたえありましたです。