1960年制作。原作 幸田文 脚本 水木洋子 監督市川崑 撮影 宮川一夫 音楽  芥川也寸志 以前BSNHKで録画して抛っておいたものを見てみた。スタッフキャスト、そうそうたるメンバーである。

 家父長制下における家族の息苦しさと、その中で負けまいと生きている思春期の姉と弟を描いて、少々長いが、見ごたえがある。

 

女学校に通っている姉(岸恵子)17,8歳。旧制中学に通っている弟(川口浩)16、7歳

小説家の父親は森雅之 継母は(田中絹代)

 

 父親は文学にしか目が行っていないで、所帯の経済や家族関係にはまったく無頓着、無関心である。二人の子供を残して妻は無くなり、後妻を迎えている。

 まま母はリュウマチに罹患して手足が不自由で臥せり勝ち、家事がままならない。そのために掃除洗濯食事作りの、家事すべて、姉が女学校に行きながら担っている。

 この母親が愚痴ばかりの上に、僻みっぽいのだが気が強い。宗教に凝っていて、質の悪い宗教家(岸田今日子)を、引き入れて、言いなりになっている。この母親の存在が陰鬱な家庭をさらに居心地を悪くし、姉と弟は、反発を内に隠してなつかない。

 

 しかし、この姉と弟は、青春の真っただ中、家の暗さも鬱陶しさも、貧困もはねのけて、活力一杯である。

だがその活力を、弟は非行に向ける。悪い仲間に入って、かっぱらいや、喧嘩をして、警察沙汰になり放校になる。更に、かけ事や、ボートや、乗馬にうつつを抜かし、借金を作って、家族を困らせ放蕩にふける。

 姉がたしなめても反省のかけらもない。子供っぽい自己中心性によるのだが、継母の存在と、プライドが高い家なのに、家計は火の車、父親の無理解が彼の蛮行に火に油を注いでいる。

 

 一方の姉は環境にめげない強い心の持ち主である。女学校に通いながら、動けない継母に変わって、文句を言いつつ女の務めとして、家事一般をこなしている。

 姉と弟は始終口喧嘩を交わし、相手にからかいや冷やかしの言葉を放ちながら、常に存在を確かめ合っているように見える。姉は雨が降れば傘を持っていき、夜なべ仕事をする姉に弟は付き合う。

 傍から見れば、普通の姉弟より距離が近いのだ。時には取っ組み合いのけんかもする。17、8の年齢にしては身体的接触が強過ぎはしないかとハラハラする。この辺が現在の地点からすれば、危うい感が漂う。弟の放蕩も、この姉を困らせようとする気持ち、拗れた愛の故なのではと、深読みできる。

 

 彼らは小さい時は同志だったろう。母親を亡くし、後から来た継母になじめず、タッグを組んで抵抗する仲間だった。

そんな彼らの関係は思春期を迎え、性的な色合いがうっすらと見え隠れするのだ。

 暗示するように、弟は遊郭に足を運び、姉は警察官を語るナンパ男に付きまとわれるうえに、継母が持ってきた縁談も断る。

 

映画は、弟に結核を患わせ、サナトリウムに、泊まり込みで献身的に介護する姉を描く。継母や父親は彼の病いを媒介になんとなく家族は和解し、彼の死とともに姉と弟の危なげな関係も終わるのである。

 

 画面はカラーなのに色を落としていて、当時の室内が人間のように語っているようであり、顔の表情に陰影ついて、心の動きがビビッドに伝わる。外部の風景もしっとり美しい。

 それにしても、岸恵子の美しさ。目元、口元、造化の神のいたずらか。表情の一つ一つに美が宿る。まあ、彼女28歳の時だそうだから女学生にしては年がいっているのだが、ビーナス、女神でありますよ。

 

 田中絹代の嫌味で在りながら悲しい継母の存在感、ノンシャランな父親森雅之。大根なのに初々しい川口浩、見ごたえありました。