SDGsを思い起こすような深い世界観から紡ぎだされた物語。

 

 生命を持つ物体として宇宙の摂理によって生きている泰然自若な自然界。それに対峙する形で、強欲に満ちた醜悪な人間界を置く。作者は容赦なくのたうち回る人間を描くが、そのまなざしは優しい悲しみに満ちている。

 

 もともと、自然と人間は同一の世界で生きてきたはずだ。それが長い時を経て、両者は分かれ、欲にからめとられた人間が自然を攻撃し、侵食した上に、人間同士で互いを食いあう世界を作ってしまった。

 

 この戯曲で取り上げられた政治家一家はまさしく、我欲に満ちて、孤独で、一家は互いに憎しみで繋がっている。

家族の中で一人、少年ルイだけは、はるか昔の自然と同一化した人間の魂を持っている。それゆえに植物に共振し、鳥の声に惹かれて、夜ごとに屋敷を抜け出て、フクロウの声を聴きに来る。

 当然彼は家族の中で生きてはいけない、彼の純な魂は人間界では生きることができない。終幕、彼は自然界へ居場所を求めに帰っていく。そう、本来の居場所に帰っていくのだ。祝福である。だから幕が下りた後には、観客は、洗われたような浄化されたような心に誘われる。

 

 上田久美子さんの取り上げた政治家家族はワイドショー的なスキャンダルで出来上がっていて、ステレオタイプ化しているのが意外だった。やり手の政治家の祖父や、娘婿に迎えた政治家像はパターン化したキャラクターである。

 

 精神を病む一人娘の姿もよくありそうで、お手付きの家政婦のエピソードも、あるある感があるのだが、俳優の熱の入った演技の力で舞台は熱をはらむ。

 

 更に、演出の技がソフィスティケートされていて、美しく斬新。役者たちの肉体で表現される植物たちの居住まいがチャーミングで、リーディング形式が必要な演出の一部のように感じられた。

 

 役者の皆さん素晴らしく、特に花總まりさんの、垣根を越えてしまったような渾身の芝居が凄まじい。勘九郎さんの神業のような演技、無垢な魂の表出に涙がとめどなく流れ落ちる。

そして、この作品では麻実れいさんがいなくてはなりたたないでしょうね。黒松の、どっしりとした重み、涅槃的というような世界を体現してました。

 ターコさまのファンであり続けて五十年、幸せな芝居見物ができています。

 

 そして、新しい天地に身を置いた上田久美子さんは今後どんな芝居を書いてくれるのか。楽しみであります。