完全版 第一巻
第五章 入鹿の善政
もう一度、入鹿を見る
その週の終わり、晋作から短いメッセージが来た。
「飯、行けるか。入鹿の話をしたい」
俺は少し笑った。「入鹿の話をしたい」——こんなことを平然と送ってくる男と、二十年付き合っている。
店に着くと三人が揃っていた。オシャレは先に来ていて、ビールをすでに半分空けている。
俺が座るなり、晋作が切り出した。
【晋作】 第二章で少し触れたけど、改めて蘇我入鹿という人物を正面から見てみたいんだよ。
【タケ】 「道に落ちているものも取らなかった」の話だろ。
【晋作】 もう覚えてるじゃないか。
当然だ。あれから毎週、晋作の話が頭に居座っている。
日本書紀は入鹿を「悪役」として描いている。しかしその「悪役の描写」を素直に読むと、奇妙なことに気づく。書かれていることが、ほとんど全て——彼の優れた政治家ぶりを示しているのだ。
「大臣の子の入鹿は、自ら国の執政を行い、その勢いは父の蝦夷よりも勝っていました。それで盗賊は恐れて、道に落ちているものも取りませんでした」
【タケ】 また「道に落ちているものも取らなかった」が出てきた。
【晋作】 そうだよ。治安の完璧さを表している。しかも「自ら国の執政を行い」——天皇任せではなく、入鹿自身が政治の実務をやっていた。
【オシャレ】 天皇じゃなくて入鹿が政治を動かしてたってこと?
【晋作】 批判として書いてあるんだけど、現代的に言えば「実務能力のある政治家が実際に仕事をしていた」ということだよ。
俺は枝豆を一粒つまんで、しばらく黙っていた。
「批判として書いてあるのに、読むと善政の証拠になっている」——これが、日本書紀という書物の奇妙さだ。書き換えようとした者の意図と、書かれた事実が、あちこちで食い違っている。
「大王家」としての蘇我氏
蘇我氏が単なる「権力を握った豪族」ではなく、「大王(天皇)家そのもの」だった可能性は高い。
証拠その一——自宅を「ミカド(宮門)」と呼んだこと。「ミカド」は天皇の御所の門を指す言葉だ。一豪族がこう呼べるはずがない。
証拠その二——子供を「ミコ(王子)」と呼んだこと。これも天皇家の子弟にしか使えない言葉だった。
証拠その三——蘇我蝦夷という名前。「蝦夷(えみし)」——これは東北の縄文系の人々の呼び名だ。大臣の名前が「蝦夷」であることは、蘇我氏が縄文系・原住民系の血を持つ王家だったことを示している。
【タケ】 縄文系の王家か。
【晋作】 そう。入鹿の別名は「鞍作」と言うんだが、もう一つ別名がある。
【タケ】 なんだ?
【晋作】 「海豚(いるか)」——つまりイルカだよ。父の蝦夷が「海の生物」の名で、息子も「海の生物」の名。これは海と縄文の民の系譜だ。
俺は「蝦夷」と「入鹿」という名前を頭の中で並べた。蝦夷——海老、海の生き物。入鹿——イルカ、海の哺乳類。
親子で、海だ。
縄文の海の民の王家が——飛鳥の大王家だった。その系譜を持つ者が、治安を完璧に保ち、道に落ちた物を誰も盗まない社会を作った。
それが「悪役」として1300年間、歴史の一番目立つところに置かれ続けた。
聖徳太子と入鹿
ここで「聖徳太子」という人物が絡んでくる。
聖徳太子の本名は「厩戸皇子(うまやどのみこ)」。母は穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇女——「はしひと」はペルシャ語で「人間」を意味する言葉に由来するとも言われる。つまり聖徳太子の母は、渡来系ペルシャ人の血を引く可能性がある。そして聖徳太子の政治的なパートナーが蘇我馬子——入鹿の祖父だ。
俺はこう考えている。「聖徳太子」とは一人の実在人物ではなく、推古天皇の時代の「政治集団の象徴」だったのではないかと。推古天皇・蘇我馬子・蘇我蝦夷・そして入鹿が一体となって作り上げた「聖徳の政治」——それが「聖徳太子」という概念だったのではないか。
小説「邪馬台国はどこですか?」(鯨統一郎著)の中に、こんな台詞がある。
「聖徳太子と蘇我馬子というのは、推古天皇の良い面と悪い面を人格化した物だからね」
【オシャレ】 じゃあ聖徳太子って実在しないの?
【晋作】 「厩戸皇子」という人物は実在したと思う。でも「聖徳太子」という超人的な聖人像は、後から作られた可能性が高い。
【タケ】 三つもお墓があるんだもんな。
【晋作】 そうなんだよ。実在する人物の墓は一つだ。三つあるということは——。
【オシャレ】 複数の人物を一人にまとめた……?
【晋作】 その可能性が高い。
俺はビールを一口飲んだ。
聖徳太子が「作られた象徴」だとすれば——「入鹿が聖徳太子の息子を殺した」という話も、その構造の上に乗っている作り話ということになる。
殺した相手が「架空の聖人の息子」なら——「入鹿の最大の罪」そのものが、存在しないことになる。
山背大兄王の「死の場面」
日本書紀には643年、入鹿が「山背大兄王(やましろのおおえのおう)」を斑鳩宮に攻めて自殺させた、と書かれている。山背大兄王は聖徳太子の息子とされる人物だ。これが日本書紀が入鹿を「悪人」とする最大の根拠になっている。
しかし——この「死の場面」を日本書紀で読むと、奇妙なことに気づく。
「山背大兄は馬の骨を取って、内寝(ヨドノ)に投げおきました。その結果、妃と子弟たちを率いて、人のいない隙に逃げて出て、胆駒山に隠れました。
巨勢徳太臣たちは斑鳩宮を焼きました。灰の中に骨を見つけて、誤まって王が死んでしまったと思って、包囲網を解いて退却して去りました」
【タケ】 ……待ってくれ。じゃあ山背大兄王は死んでないのか?
【晋作】 斑鳩宮では死んでいない。その後、山の中に逃げ込んだと書いてある。
【タケ】 なんで死んだことになってるんだ?
【晋作】 そこなんだよ。日本書紀の構造として、ここで山背大兄王は「再登場しない」。死んだことにされている。
【オシャレ】 逃げた先で何があったの?
【晋作】 「東国に逃れて軍を起こして戻って来い」という進言があった。でも断ったと書かれている。
【タケ】 その後どこへ行ったんだ?
【晋作】 それが——「吉野」なんだよ。
俺はグラスを置いた。
吉野——。
どこかで聞いた言葉だと思った。まだうまく繋がらない。でも何かが、頭の奥で引っかかっている。
三度繰り返される「吉野」——これが証拠だ
【晋作】 日本書紀の中に、全く同じシチュエーションが、なんと三度登場する。
【タケ】 三度?
【晋作】 「吉野に退く」という行動が、三度繰り返される。同じプログラムが三度起動した——これはデジャブだ。
晋作は静かに、三つの場面を並べて見せた。
一度目——643年。山背大兄王(聖徳太子の息子)。
斑鳩宮を焼かれ、胆駒山へ逃亡。「東国に逃れて軍を起こして戻ってこよう」という進言に対し、山背大兄王は断った。そして——「吉野」方面へと姿を消した。
二度目——645年。古人大兄皇子(蘇我の血を引く大王の後継者)。
乙巳の変の現場で「韓人が鞍作を殺した」と叫んだ古人大兄皇子。彼はその二日後に皇位継承を辞退し、こう言った。
「私めは請い願います。出家して、吉野(ヨシノ)に入ります。仏道(ホトケノミチ)に勤めて、修行して、天皇を助けましょう」
そして——「吉野」へと消えた。
三度目——671年。大海人皇子(後の天武天皇)。
天智天皇の臨終の床で、皇位継承を辞退した大海人皇子。
「天皇のために出家して修道しようと思います」
大海人皇子はすぐに吉野に入りました。
ある人が、吉野宮へと向かう大海人皇子を見て、つぶやいたという。
「虎に翼をつけて放した」と。
晋作が読み上げる間、俺は黙って聞いていた。
一度目。二度目。三度目。
吉野。吉野。吉野。
【タケ】 ……三回とも、全く同じ流れだな。
【晋作】 そうだよ。「吉野へ行く」「出家・修行する」——そして三人とも、その後に「東国」と繋がりを持つ。
【オシャレ】 マトリックスのデジャブみたい。
【晋作】 まさにそれだよ。「また同じ猫が廊下を通り過ぎた」——プログラムが書き換えられたサインだ。
俺は頭の中で三つの場面を重ねた。
643年、643年に消えた男。645年、乙巳の変の直後に消えた男。671年、吉野へ向かった男。
全員が「吉野」へ行く。全員が「出家・修行」を名目にする。全員が「東国」と繋がる。
俺はゆっくりと言った。
【タケ】 でも待ってくれ。……三人が同一人物だというのか?
晋作はうなずいた。
【晋作】 そう。俺はそう考えている。
山背大兄王=古人大兄皇子=大海人皇子——同一人物説
この三人は同一人物だ。
そしてその人物こそが——聖徳太子(蘇我氏・縄文大王家)の息子だった。
聖徳太子の墓は——三つある。大阪の叡福寺北古墳、奈良の法隆寺、奈良の橘寺。実在する人物の墓は一つだ。三つあるということは、複数の人物の記憶が「聖徳太子」という一つの名前に統合されたということだ。
そして奈良・明日香村に「石舞台古墳」がある。あの巨大な石の塚は、本来は土で覆われていたはずだ。その盛り土が剥がされ、石だけが剥き出しになっている。剥いだのは——乙巳の変の後に権力を握った者たちだ。石舞台は蘇我馬子の墓だとされている。つまり入鹿の祖父の墓が、入鹿が殺された後に暴かれた。
馬子の墓が暴かれ、蝦夷が自害し屋敷を焼かれ、入鹿が宮廷で斬殺された。蘇我氏の「痕跡」を、生者も死者も含めて根絶やしにしようとした。
それでも「聖徳太子の墓」は三つ残った。
消しきれなかった記憶が——三つの墓として、今もそこにある。
山背大兄王(643年・脱出)
↓ 「吉野」へ逃れ、東国へ
古人大兄皇子(645年・隠棲)
↓ 「吉野」へ退き、姿を隠す
大海人皇子(671年・決起)
↓ 「吉野」から東国の兵を集め、壬申の乱へ
日本書紀はこの同一人物を、三つの別々の名前に分割して歴史に配置した。
なぜか。
山背大兄王が「死んだ」ことにしなければ、古人大兄皇子が「謀反で誅殺された」ことにしなければ——百済王子・豊璋(中大兄皇子)による国家乗っ取りの正当性が生まれないからだ。
【オシャレ】 じゃあ本当は——入鹿の時代に山背大兄王が逃げて、645年の乙巳の変でも古人大兄として逃げて、最後に大海人皇子として戻ってきた?
【晋作】 そう。28年間の「長い旅」だよ。
【タケ】 28年間……
【晋作】 643年に斑鳩から逃げ、645年に吉野へ消え、その間に東国・東北の縄文系の人々と絆を結んだ。そして671年、満を持して吉野から動き出した。
【オシャレ】 「虎に翼をつけて放した」——それが実感だったのね。
【晋作】 そう。天智天皇(豊璋)は知っていた。あの男が吉野へ行くことの意味を。だから恐怖した。でも止められなかった。
俺はしばらく黙っていた。
28年間。
643年から671年まで——28年間、この男は「死んだふり」をして生き続けた。名前を変え、姿を消し、東国の民と絆を結び続けた。
豊璋が14年かけて宮廷に浸透したように、この男は28年かけて反撃の準備をした。
どちらが「長い計画」か——引き分けだ。
蘇我入鹿——最後の「罪」
もう一度、入鹿に戻ろう。
入鹿は643年に山背大兄王を「殺した」とされている。しかし実際には、山背大兄王は逃げた。
では645年の乙巳の変の時、入鹿は何をされたのか。
宮廷の真ん中で、突然剣を向けられ、斬殺された。裁判もなく、弁明の機会もなく。翌日には一族が皆殺しにされ、屋敷が焼かれた。
そして入鹿が死んだ後——「入鹿が山背大兄王を殺した」という物語が作られた。
死人は反論できないから。
蘇我入鹿は、1300年以上「悪役」として日本の歴史の「一番目立つところ」に置かれ続けた。その間、誰も「道に落ちているものも取らなかった」という一行を、正面から見つめようとはしなかった。
次の章では、いよいよ645年6月12日——乙巳の変の当日を、リアルタイムで追っていく。三日間で日本が変わった、その全貌を。
【晋作】 ただ……一つだけ、気になることがある。
【タケ】 なんだよ、もったいぶって。
【晋作】 山背大兄王の「死の場面」——あまりにも都合よく書かれていないか?馬の骨を置いて逃げた、灰の中に骨が見つかった……まるで最初から「逃げた」ことを示すために書かれたような……まるで誰かが意図して書いたような気がするんだよ。
【オシャレ】 どういう意味?
【晋作】 今はまだ言えない。でも第三巻で、この話に必ず戻る。その時、山背大兄王という存在が全く違って見えるはずだよ。
【タケ】 ……お前が「まだ言えない」って言う時は、大抵とんでもないことを考えてる時だよな。
【晋作】 ……そうかもな。
晋作は熱燗の最後の一口を飲んで、静かにカウンターに猪口を置いた。
俺はなぜか、少しだけ怖かった。
── 続く ──