―乙巳の変の雨―
「十字架の国」第一巻
序 お前に話しておきたいこと
お前が中学に上がった年の、梅雨のはじめの晩だった。夕飯のあと、お前は社会科の宿題を広げて、「大化の改新って、いいことだったんだよね」と聞いた。
父さんはすぐに答えられなかった。
千三百年以上むかしに書かれた『日本書紀』という本がある。日本という国が、自分の国の歴史を初めて正式にまとめた本だ。天皇の系譜も、事件も、戦も、みんなこの本に書いてある。学校で習う古代史のおおもとは、ほとんどこの一冊だと思っていい。
その本の中に、父さんがどうしても忘れられない七つの文字がある。
**韓人殺鞍作臣**——からひと、くらつくりのおみをころしつ。
たった七文字だ。だが父さんは、この七文字を二十七年間考え続けてきた。今夜から少しずつ、その話をする。
先に約束しておく。父さんはこれから、本に**書いてあること**と、父さんが**考えたこと**を、必ず分けて話す。書いてあることは「書いてある」と言う。父さんの想像は「想像だ」と言う。お前は途中で何度でも「それ、ほんとに書いてあるの?」と聞いていい。むしろ聞いてほしい。歴史というのは、覚えるものじゃない。疑って、確かめるものだ。
それから、この本の題がなぜ「十字架の国」なのか——それは、この長い旅の終わりまでに話す。今はまだ、その時じゃない。
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## 第一章 韓人、鞍作を殺す
西暦645年、6月12日。飛鳥の都は朝から雨模様だった。
その日、板蓋宮(いたぶきのみや)の大極殿——天皇がまつりごとを行う、国でいちばん格の高い建物だ——で、儀式が行われることになっていた。三韓進調(さんかんしんちょう)。朝鮮半島の三つの国、高句麗・百済・新羅からの貢ぎ物を受け取る儀式だ。
玉座には皇極天皇。女性の天皇だ。その傍らに、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)という皇子が控えていた。ここは書いてあることだ——『日本書紀』は「古人大兄侍焉(古人大兄、はべり)」と、彼がその場にいたことをわざわざ記している。この一行を覚えておいてくれ。あとで、とても大事になる。
やがて、蘇我入鹿(そがのいるか)が入ってきた。
蘇我氏は、このころ日本でいちばん力を持っていた一族だ。入鹿はその当主で、国の政治を実際に動かしていた。用心深い男で、昼も夜も剣を身から離さなかったという。ところがこの日、宮の入り口で、道化役者がおどけながら近づいてきて、笑わせながら、するりと剣を外させてしまった。入鹿は笑って、丸腰のまま席についた。
上表文——貢ぎ物に添える正式な文書だ——の読み上げが始まった。読み手は蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)。蘇我の分家の男だ。
ところが、様子がおかしい。
読み上げる声が、震えている。手が乱れ、全身から汗が流れ落ちる。入鹿が怪しんで尋ねた。「なぜそのように震えるのか」。石川麻呂は答えた。「天皇のおそば近くが、おそれ多くて」
その瞬間だった。
「やあっ!」
物陰から若い皇子が躍り出て、剣を振るった。刃は入鹿の頭と肩を裂いた。皇子の名は、中大兄(なかのおおえ)。続いて刺客たちが斬りかかり、入鹿は足を傷つけられ、玉座の前まで這って、天皇に向かって叫んだ。
「臣、罪を知らず。どうか、お調べください」
自分がなぜ殺されるのか、最後までわからないままの叫びだった。天皇は大きく驚いて中大兄に問うた。「これは何事です」。中大兄が答え、天皇は立ち上がり、黙って宮の奥へ入ってしまった。入鹿はそこで斬り殺された。
その日、雨が降った。庭には水があふれ、入鹿の亡骸には、障子がかぶせられた。
大化の改新はこの殺人事件から始まったんだ・・・この事件を「乙巳の変」と言う。
——さて。ここからが、父さんが二十七年間考え続けてきた場面だ。
玉座の傍らで一部始終を見ていた古人大兄皇子は、走って自分の屋敷に逃げ帰った。そして人々に、こう言ったと『日本書紀』は記している。
**【原文】韓人殺鞍作臣。吾心痛矣。**
(からひとが、鞍作臣を殺した。私の心は痛い)
鞍作(くらつくり)というのは入鹿の別名だ。だから意味はこうなる——「**韓人が、入鹿を殺した**」。韓人というのは、朝鮮半島の人、という意味だ。そして言い終えると、古人大兄は寝所に入り、門を閉ざして、二度と出てこなかった。
おかしいと思わないか。
入鹿を最初に斬ったのは、中大兄だ。日本の天皇の息子とされる皇子だ。それを目の前で見ていた男が、なぜ「**韓人**が殺した」と言ったのか。
古人大兄と中大兄はどちらも舒明天皇の腹違いの兄弟なのに・・・
見間違いだろうか。だが古人大兄は玉座の傍らにいた。特等席だ。取り乱していたのだろうか。だが彼の言葉は続けて、「これは韓(から)の政治がらみで殺されたのだ」という冷静な分析までしている。
韓人とは、誰のことなのか。
この謎を解くために、父さんはお前を、大化の改新から62年前の海辺に連れて行かなくちゃならない。そこに一人の、体が炎のように光ったという不思議な男がいる。
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## 第二章 日羅の予言
西暦583年。敏達(びだつ)天皇の時代だ。
海の向こうの朝鮮半島には、三つの国があった。高句麗、新羅、そして百済(くだら)。百済は日本——当時は倭(わ)と呼ばれた——といちばん深く付き合っていた国だ。仏教も、文字も、技術も、多くが百済から海を渡ってきた。
その百済に、日羅(にちら)という男がいた。
日羅の父は、九州の火葦北(ひのあしきた)という土地の豪族だった。つまり日羅は、倭の血を引く男だ。その男が海を渡り、百済の宮廷で出世に出世を重ね、達率(だっそつ)——百済の官位で上から二番目——にまで昇りつめていた。倭に生まれ、百済の権力の中枢に食い込んだ男。この経歴を、頭の隅に置いておいてくれ。
敏達天皇は、この日羅を呼び戻したいと考えた。百済の内情をいちばんよく知る倭人だからだ。百済の王は手放すことを渋ったが、日羅は天皇の召しに応えて、海を渡ってきた。『日本書紀』はこの男について、奇妙なことを書いている——**その体は、炎のように光っていた**、と。
都に上った日羅は、天皇への答申の中で、恐ろしい警告を残した。書いてあることだ。原文を見せよう。
**【原文】百濟、欲新造國、必先以女人・小子載船而至。**
(百済は、**新しく国を造ろう**として、必ずまず**女と幼い子ども**を船に乗せて送り込んできます)
日羅の警告は、こう続く。「国家はその時をねらって、壱岐・対馬に伏兵を置き、着いたところを討ちなさい。**逆に、だまされてはなりません**。要害の地には堅く砦を築きなさい」
……変だと思わないか。攻めてくるなら、兵士だろう。なぜ「女と子ども」なのか。そして女子どもの船のどこに、「だまされるな」と警告するほどの**だまし**があるのか。
考えてみてくれ。武装した男たちの船団なら、海の上で見つかった時点で戦になる。だが、女と幼い子どもを乗せた船はどうだ。誰も警戒しない。むしろ気の毒に思って、迎え入れる。
そして——ここからは父さんの読みだが——上陸したあと、美しい女は、権力者の妻になる。幼い子どもは、誰かが引き取って育てる。つまり彼らは、**迎え入れた国の、権力の中枢そのものの中に入っていく**。兵士は城壁を外から壊すが、女と子どもは、城壁の内側に、最初から招き入れられるんだ。
そして時が来たら——中に入った者たちが、呼応する。
日羅がなぜこの手口を見抜けたか、父さんには一つの答えがある。**彼自身が、その生きた実例だったからだ**。倭に生まれ、百済の中枢に入り込み、そして倭の呼びかけに応えて、百済の計画を売った男。彼は自分の人生を、逆向きに語っただけなのかもしれない。
日羅の最期は、その年の暮れに来た。
殺したのは、新羅でも、倭の者でもない。**百済から彼に随行してきた、百済人の従者たちだった**。帰国する百済の使者が、従者たちにささやいたのだ——あの男を、生かして帰すな。従者たちは、日羅の体の光が消える瞬間を待って、刃を突き立てた。
日羅は一度、息を吹き返した。そして、はっきりとこう言った。
「これは、私が使っていた従者どもの仕業だ。**新羅ではない**」
言い終えて、死んだ。
『日本書紀』を書いた人は、この遺言に短い注釈を添えている。「このとき新羅の使者が来ていた。だから、こう言ったのである」——つまり、その場に居合わせた新羅人に、まちがった疑いがかからないように、死にゆく男は殺した者の正体を正確に名指したのだ、と。
覚えておいてくれ。**殺しの現場で、殺した者の国の名を告げる言葉**。それは取り乱した叫びではなく、正確な犯人の特定として、この本の中で扱われている。
——62年後。雨の大極殿のかたわらで、もう一人の男が、殺した者の国の名を口にすることになる。
「韓人が、鞍作臣を殺した」と。
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## 第三章 悪の入鹿と正義の鎌足
さて、時計を戻そう。乙巳の変の少し前の話だ。
学校の教科書は、この事件をだいたいこう教える。**蘇我入鹿は横暴のかぎりをつくす悪い権力者で、中大兄皇子と中臣鎌足(なかとみのかまたり)という正義の二人がこれを倒し、天皇中心の正しい政治を取り戻した**——大化の改新の始まりだ、と。
『日本書紀』も、そう書いている。入鹿がどれほど悪かったか。中でもいちばんの悪事とされるのが、643年、山背大兄王(やましろのおおえのおう)という皇子の一族を滅ぼした事件だ。
山背大兄王は聖徳太子の子とされる人で、書紀は彼を、まぶしいほど立派な人物として描く。入鹿の軍に攻められたとき、家臣が進言した。「東国へ逃れて兵を挙げれば、必ず勝てます」。山背大兄王は答えた。「お前の言うとおり、勝てることは確かだ。**だが私は、民を苦しめたくない」・・・そして一族もろとも、自ら命を絶った。勝てたのに、戦わずに死んだ聖人。彼を殺した入鹿は、聖人をも殺す極悪人と評価される——物語は完璧だ。
完璧、すぎるんだ。
父さんは『日本書紀』の中の似たような事件を、文字数で数え比べてみたことがある。おどろいたよ。**天皇そのものが暗殺された事件**(崇峻天皇、592年)は、たった百四十六文字で終わっている。ところが入鹿暗殺の場面は、千文字を超える。**七倍以上**だ。刺客が緊張のあまり飯を吐いたこと。読み手の全身の汗。剣の種類。被害者の最期の言葉。降る雨。……天皇殺しにすら書かれなかった細かい描写が、入鹿の死にだけ、これほど念入りに書き込まれている。
それから、入鹿の「横暴」の中身を数えてみた。実は、たったの二件しかない。山背大兄王の事件と、自分の屋敷を武装させたこと。それだけだ。しかもその一方で書紀は、入鹿が政治をとった時代についてこう書いている——「盗賊は恐れおののき、**道に落ちているものを拾う者もいなかった」・・・つまり、入鹿の政治による治安がきわめて良かったと、書紀自身が認めているんだ。
物語が上手に語られすぎているとき、お前はひとつだけ、問いを立てればいい。
**——その物語で、得をしたのは誰だ?**
もう一人の主役、中臣鎌足のことも話しておこう。教科書では正義の忠臣だ。だが書紀をよく読むと、面白いことが書いてある。鎌足は最初、中大兄ではなく、**別の皇子**に近づいていた。輕皇子(かるのみこ)という人だ。破格のもてなしを受けた。それなのに鎌足は、輕皇子を見限って、中大兄に乗り換えている。理由は書かれていない。
そして書紀は、鎌足の行動をこんな言葉で書いている。
**【原文】歷試接於王宗之中、而求可立功名哲主。**
(王族の中を**次々に試しては接触し**、大きな仕事を成せる賢い主を探し求めた)
・・・次々に試して、探し求めた。まるで、芝居の主役を探す興行主みたいじゃないか。
正義の忠臣は、憤って立ち上がるものだ。主役を**オーディション**したりはしない。
第一章の謎に、二つ目の謎が重なった。韓人とは誰か。そして、鎌足とは何者か。この二つの謎の答えは、実は一つの場所にある。それを話すために、今度は事件の14年前、一艘の船に乗った、六つの男の子のところへ行こう。
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## 第四章 小子、海を渡る
西暦631年。一艘の船が、百済からやって来た。
船には、小さな男の子が乗っていた。名を豊璋(ほうしょう)という。百済の王子だ。歳は、数えでおそらく六つ。
「人質(ひとじち)」として送られてきた、と『日本書紀』は書いている。人質といっても、牢に入れられるわけじゃない。国と国とが「裏切りません」という証しに、王族の子を相手の国に住まわせる——当時の外交では、ふつうに行われていたことだ。子どもは相手国の宮廷で、客人として育てられる。
……ここで、第二章を思い出してほしい。日羅の予言だ。「百済は新しく国を造ろうとして、必ずまず女と、**幼い子ども**を船に乗せて送り込んでくる」。予言から48年後に、幼い百済の王子が、船で海を渡ってきた。
いや、あわてるな。父さんは「だから豊璋は送り込まれた工作員だ」なんて言うつもりはない。六つの子どもに何ができる。それに、583年の予言と631年の人質を直接つなぐ記録は、どこにもない。ここは慎重に行こう。ただ、**型が似ている**——今はそれだけを、胸に留めておいてくれ。
それより父さんが話したいのは、この子を迎えた側——倭の大王、舒明(じょめい)天皇のことだ。
豊璋が来て8年後、舒明天皇は新しい宮と大きな寺を建てはじめる。場所に選んだのは、**百済川**のほとり。寺の名は**百済大寺。百済川のほとりには九重の塔も建てた。翌年、天皇は完成した宮に移り住む。宮の名は**百済宮。
そして641年の10月、天皇は崩御する。場所は、百済宮。遺体を安置してとむらう「殯(もがり)」という儀式が宮の北で行われ、書紀はその殯をこう呼んでいる——**百済の大殯(くだらのおおもがり)
宮も、寺も、塔も、住まいも、死んだ場所も、そして葬いの名前まで、百済、百済、百済だ。倭の大王の晩年が、これほど一つの外国の色に染まった例を、父さんは他に知らない。幼い百済の王子が宮廷で育てられていたとされる、まさにその歳月に。
書紀は「舒明天皇が豊璋をかわいがった」とは一言も書いていない。そこは正直に言っておく。だが、もしあの小さな王子が誰かの膝の上で育ったのだとしたら——その膝のあった場所の空気は、これほどまでに百済の匂いがしたということだ。
さて。舒明天皇の葬儀の場面に、一人の少年が登場する。書紀の原文はこうだ。
**【原文】東宮開別皇子、年十六而誄之。**
(東宮の開別皇子〔ひらかすわけのみこ〕、歳十六にして、弔いの言葉を述べた)
十六歳の皇子が、大王の葬儀で堂々と弔辞を読んだ。この開別皇子こそ、のちの中大兄皇子——第一章で、入鹿に最初の一太刀を浴びせた、あの皇子だ。
ここに、二つの妙なことがある。
一つ。「東宮」というのは皇太子、つまり次の天皇と正式に定められた者の称号だ。ところが書紀のどこを探しても、**この皇子が皇太子に立てられたという記事がない**。彼が正式に皇太子になるのは、4年後——乙巳の変の直後だ。つまりこの「東宮」という肩書きは、この時点では、**存在しないはずの称号**なんだ。
二つ。もっと妙なのはこっちだ。この皇子には、**子ども時代の記録が一行もない。生まれた記事も、幼い日の逸話も、何もない。日本の歴史でいちばん有名な皇子の一人が、『日本書紀』の中では、十六歳のこの葬儀の場面で、**突然、東宮としてこの世に現れる**。
六つで海を渡ってきて、記録から消えていく百済の男の子。
どこからともなく現れて、十六歳で東宮と呼ばれる倭の皇子。
不思議なことにこの二人は年齢がほとんど同じなんだ。
片方は入り口だけがあって、出口がない。もう片方は出口だけがあって、入り口がない。
——父さんが言えるのは、ここまでだ。あとは、お前が考えてくれ。
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## 第五章 島流しの嘘
舒明天皇が死んだ翌年、642年の正月。九州の筑紫に、百済からの船団が入った。亡き天皇をとむらう弔問の使節だ。
使節より先に、一人の役人が早馬で都へ駆けた。安曇比羅夫(あずみのひらふ)。彼は朝廷にこう告げた。「百済の国は今、大いに乱れています**」
やがて、使節の**従者たちの口から、おどろくべき知らせが都に流れた。整理すると、こうだ。
「去年の十一月、大佐平の智積(ちしゃく)さまが亡くなりました」——大佐平というのは百済の最高位の大臣だ。
「今年の正月、国王の母君が亡くなりました」
「そして——王族の翹岐(ぎょうき)さまと、その母君や妹君ら女の方が四人、内佐平の岐味(きみ)さま、名のある人々あわせて四十人あまりが、島に流されました」
大事件だ。王族と重臣の一斉追放。百済の宮廷で、何か大きな政変が起こったらしい——誰でもそう思う。教科書的な説明も「百済の内乱で敗れた一派が、日本に亡命してきた」というものだ。
ところが。この「島流しの物語」を、『日本書紀』自身の記事と突き合わせていくと、**縫い目が、次々にほどけていくんだ。一つずつ見せよう。全部、書いてあることだ。
**ほどけ目の一。死んだはずの男が、生きている。**「去年死んだ」と報告された大佐平・智積。その同じ年の七月、倭の朝廷は「百済の使者、大佐平智積ら」を宴でもてなしている。死亡の報告と、生きて宴に出ている記録が、同じ本の同じ巻の中で、正面からぶつかっている。
**ほどけ目の二。島流しの男が、三週間後に都にいる。**正月に島に流されたはずの翹岐が、二月二十四日、倭の朝廷から「**召され**」て、安曇氏の屋敷に迎え入れられている。考えてもみてくれ。櫂も持たされずに島に置き去りにされた一族が——女子ども連れだぞ——島を脱出し、海を渡り、九州から都まで来る。それが三週間でできるか? もし嵐で流されたのなら、対馬や出雲の浜に打ち上げられるのが道理だろう。実際『日本書紀』は、漂着というものを実に律儀に記録している。南の島から**たった二人**流れ着いても「屋久の人二人、伊豆嶋に流れ来たる」と、人数と場所つきで書き残す本なんだ。それなのに、王族と四十余人の大集団については——漂着の記事も、到着の記事も、**一行もない**。ある日突然、都に「いる」。
**ほどけ目の三。流刑者が「大使」と呼ばれる。**四月の記事で翹岐は「太使**翹岐」——使節団の代表という肩書きで、従者を率いて朝廷に参上している。罪人と大使は、両立しない。
**ほどけ目の四。もてなしが、罪人あつかいじゃない。**時の最高権力者・蘇我蝦夷(入鹿の父)は、翹岐を自分の畝傍の家に招き、親しく語り合い、良馬一頭と鉄二十梃を贈っている。あげくの果てに七月には、あの「死んだはずの」大佐平智積が、宴の帰りに**翹岐の屋敷の門に向かって拝礼した**と書いてある。百済の最高位の大臣が、頭を下げる相手——それは、罪人じゃない。*王の一族に対する礼だ。
**ほどけ目の五。百済の王は、返せと言わない。**もし本当に処罰として流したのなら、彼らが倭に現れたと知った百済王は「罪人だから保護するな、送り返せ」と求めるのが筋だ。実際、当時の倭には漂着した外国人を本国へ送り返す実務がちゃんとあった。ところが百済の正式な使節が送還を求めたのは、たった一人——塞上(さいじょう)という人物だけ。しかも倭の朝廷は、その唯一の要求を「**天朝、許さず**」と、はねつけている。要求された一人は渡さず、処罰されたはずの者たちは召し抱えて厚遇する。……あべこべだろう?
まとめよう。「島流し」の物語は、**使節の従者という非公式の口**から語られた。その物語には、**書紀自身が嘘だと証明できる項目**(智積の死)が混じっていた。物語の主人公たちは、島に流されたはずの三週間後に、**賓客として都にいた**。そして受け入れの手配——第一報も、聞き取りも、宿舎も——は、最初から最後まで**安曇氏**、海の民の一族の手の中にあった。
これが父さんの読みだ。**島流しなど、なかった**。あれは、倭に向けて語られた「かわいそうな追放者たち」という**物語**であり、一行は舒明天皇の弔問船団と同じ潮に乗って、百済からまっすぐ倭へ渡ってきた——迎える手はずの、すべて整った海をだ。
思い出してくれ、日羅の言葉を。「**逆に、だまされてはなりません**」
だまし——それは武器を隠した船なんかじゃない。**気の毒な身の上話**こそが、城門をいちばん静かに開けさせる。
こうして倭の都には、百済の王族の女たち、王の血を引く者、そして——内佐平・岐味。「内佐平」というのは百済の最高職の一つ、王のいちばん近くに仕える頭脳だ。日羅の予言の道具立てが、これで揃った。女たち。そして、知恵ある者。
631年に渡ってきた、あの小さな王子のことを、覚えているか。百済の王子だったな。
母と兄弟たちがやって来たのに翹岐の接待には登場しないんだ。
すでに倭人になりきっていたのかも知れない・・・
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## 第六章 路上の学問
644年の正月。飛鳥の法興寺の、けやきの木の下で、蹴鞠(けまり)の会が開かれた。
蹴鞠というのは、革の鞠を落とさないように蹴り続ける、貴族の遊びだ。輪の中には、十八歳の中大兄皇子もいた。皇子が鞠を蹴り上げた、その拍子に——**皮の沓(くつ)が、鞠と一緒に脱げて飛んだ**。
一人の男が進み出て、沓を拾い、両手のひらに載せ、ひざまずいて、うやうやしく皇子に差し出した。中大兄も、ひざまずいてそれを受け取った。
男の名は、中臣鎌足。二人の出会いの場面として、教科書にも載る有名な話だ。『日本書紀』はこの出会いを「**偶**(たまたま)」という一文字で書いている。偶然、蹴鞠の輪に加わっていた、と。
・・・たまたま、ね。
第三章を思い出してくれ。鎌足は「王族の中を次々に試しては接触し、大きな仕事を成せる主を探し求めた」男だ。輕皇子に近づき、破格のもてなしを受け、それでも見限った男だ。書紀にはこうも書いてある——鎌足は蹴鞠の会より**前に、すでに心を中大兄に決めていた。ただ、近づく機会がなくて、「**幽抱**(ゆうほう)」——胸の奥に秘めた企て——を、まだ打ち明けられずにいたのだ、と。
つまり、だ。オーディションは終わっていた。主役は決まっていた。**台本は、出会いの前に書き上がっていた。あとは「たまたま」を、演出するだけだった。脱げた沓を拾ってひざまずく——身分の低い者が皇子の心をつかむ手として、これほど絵になる場面があるか。
出会った二人は、それから連れ立って、南淵請安(みなぶちのしょうあん)という学者の私塾に通いはじめる。周公・孔子の教え——政治のあるべき姿を説く学問だ。おや、若い二人が机を並べて猛勉強か。美しい話だ。
ところが『日本書紀』は、この「勉強」の理由を、身もふたもなく書き残している。
**【原文】恐他嫌頻接。(中略)遂於路上、往還之間、並肩潛圖。**
(**人に怪しまれるのを恐れて**〔学問を口実にした〕。そして塾への行き帰りの路上で、肩を並べて、**ひそかに謀りごとを練った**)
わかるか。教室は、隠れみのだった。本体は、**行き帰りの道**にあった。人けのない路上でだけ、二人は本当の相談をした。書紀は「二人の意見が食い違うことは、何一つなかった」とまで書いている。
さて——ここから先は、書紀のどこにも書いていない。父さんの想像だ。約束どおり、はっきりそう言っておく。だが父さんは、あの路上で、いつかこんな会話があったはずだと思っている。
夕暮れの、飛鳥の道。前を歩く年かさの男が、足を止めずに、静かに言う。
「殿下。あなたには今、敵がいない。あなたを殺そうとする者は、この国に一人もいない」
若い皇子は答えない。男は続ける。
「入鹿の目は、別の方を向いている。あなたは安全だ。このまま何もしなければ、あなたは穏やかな一生を送れるでしょう。——ですが、事を成せば、話は変わる。実行したその日から、あなたの周りは敵だらけになる。**殺さなければ、殺される**。死ぬまで、それが続く」
道の先に、寺の塔の影が伸びている。男は初めて足を止め、皇子を見る。
「安全な一生か。敵だらけの玉座か。——**あなたは、王子として、どちらを選びますか**」
若者が何と答えたか、父さんは書かない。想像の会話に、想像の答えを重ねるのは、やりすぎだからだ。それに——彼の答えなら、お前はもう知っている。第一章で、見ているんだから。
一つだけ、書いてあることを言い添えておく。この問いを発したはずの男、中臣鎌足。そして第五章の終わりに倭に上陸した、百済の頭脳、内佐平・岐味。・・・『日本書紀』の中で、岐味の名は、あの上陸の記事を最後に、**ぷっつりと消える**。あれほどの大物が、倭で何をしたのか、いつ死んだのか、一行もない。そして入れ替わるように、それまで無名だった中臣鎌足という男が、歴史の中央に、すっと現れる。
同じ人物だという証拠はない。ないが——片方は消え、片方は現れた。その継ぎ目が、あまりにも、なめらかなんだ。
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## 第七章 大極殿の雨
645年、6月12日。あの日に、帰ってきた。
第一章でお前は、この事件を**外から**見た。今度は、**内側から**見せよう。
計画は、細かく組まれていた。儀式の読み手には、蘇我の分家の石川麻呂——鎌足が、中大兄の縁談を仲立ちして、あらかじめ味方に引き込んであった。蘇我を、蘇我で割ったんだ。宮の十二の門は、すべて閉じさせる手はず。入鹿の剣は、道化役者に外させる。刺客は二人、物陰に。中大兄自身も、**長い槍**を手に、殿舎の脇にひそんだ。
台本は完璧だった。——完璧なはずだった。
上表文の読み上げが、始まる。物陰の刺客二人は、恐怖で足がすくんだ。緊張のあまり、水をかけて流しこんだ飯を、**吐いた**。読み手の石川麻呂は、刺客がいつまでも出てこないことに気づいて、全身から汗が噴き出し、声が乱れ、手が震えた。文は、もうすぐ読み終わってしまう。読み終われば、入鹿は席を立つ。二度と、この好機は来ない。
刺客たちは、それでも動けない。入鹿という男の威に呑まれて、その場でぐるぐると足踏みするばかりで、前に出られない——書紀は、そう書いている。
台本を書いた者にも、書けないものが、一つだけあったんだ。
**他人の勇気だけは、台本に書けない。**
すべてが凍りついた、その一瞬——
「やあっ!」
叫んで飛び出したのは、主役自身だった。中大兄。手にしていたはずの長槍ではなく、剣が一閃し、入鹿の頭と肩を裂いた。(なぜ槍を構えて隠れた男が剣で斬ったのか、書紀は説明していない。妙な食い違いだが、これも書いてあるとおりに伝えておく。)凍っていた刺客たちが、われに返って続いた。
血まみれの入鹿は、玉座へ這った。「臣、罪を知らず。どうか、お調べを」。皇極天皇は驚いて問うた。「これは、何事です」。中大兄は地に伏して答えた——「鞍作(入鹿)は天皇家をことごとく滅ぼし、皇位を傾けようとしています。**天孫を、鞍作に代えられましょうか**」
天孫——天照大神の血筋、という意味だ。この国の王家の正統を指す、いちばん重い言葉。若い皇子は、その言葉を鎧のようにまとって、剣を振るった理由を語った。
天皇は何も言わず、立ち上がり、宮の奥へ消えた。入鹿は、斬られた。
雨が、降りはじめていた。庭にあふれる水。障子をかぶせられた亡骸。
——そのすべてを、玉座のかたわらで、一人の男が見ていた。
古人大兄皇子。彼は見た。誰よりも近くで、最初の一太刀を放った者の顔を、はっきりと見た。そして走った。宮を出て、雨の中を、自分の屋敷へ。
彼がたどりついた先で何と言ったか、お前はもう知っている。七つの文字だ。「天孫」と名のった皇子の、その鎧の下にあるものを、目撃者はただ一言で言い当てた。
走り去る古人大兄の背中に、冷たい雨が打ちつけていた。
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## 第八章 筆を執る者
それから、75年ほど時が流れる。
720年・・・奈良時代だ。
一人の老いた男が、灯りの下で、書きかけの書物の山に向かっている。男の名は、藤原不比等(ふじわらのふひと)。中臣鎌足の息子だ。父の代に始まった藤原の家は、今やこの国の政治の頂点にある。そして男の手もとで編み上げられていくのが——『日本書紀』。この国の、最初の正史だ。
正史というのは、国家が「これが正しい歴史です」と定める本のことだ。つまりこの本には、書く側の**選ぶ力**が働いている。何を残し、何を消し、何をふくらませるか。
想像してみてくれ。乙巳の変の草稿を前にした、この男を。
入鹿の「横暴」を、書き足す。山背大兄王を、勝てたのに戦わなかった聖人に磨き上げる。刺客の吐いた飯を、石川麻呂の汗を、雨を、細かく細かく書き込んで、あの日を一幕の芝居のように仕立てる。父・鎌足は、私心なき正義の忠臣に。すべての筆が、一つの結論へ向かう——**あの暗殺は、正しかった**。
そして男の筆が、一行の前で、止まる。
**韓人殺鞍作臣。**
消すか。残すか。
目撃者の、たった七文字。父たちが成したことの、たぶん、いちばん危険な証言。筆一本で、消せる。誰にも知られずに。
……男は、消さなかった。かわりに、傍らに小さく注を書き添えた。「韓の政治がらみで殺された、という意味である」——読む者の目を、そっと別の方へ導く注釈を。
なぜ消さなかったのか。消せなかったのか。父さんには、まだ答えがない。それはこの旅の、ずっと先で考えよう。
さあ、これで第一巻の物語は終わりだ。最後に、約束どおり、**書いてあること**と**父さんが考えたこと**を、きちんと仕分けして渡す。ここが今夜いちばん大事なところだから、ゆっくり読んでくれ。
**『日本書紀』に書いてあること(お前が図書館で確かめられること)**
- 古人大兄が現場にいて、「韓人が鞍作臣を殺した」と言ったこと
- 最初の一太刀を浴びせたのが中大兄自身であること
- 日羅の予言——「百済は新しく国を造ろうとして、まず女と幼い子どもを船で送り込む。だまされるな」——と、日羅が百済人の手で殺され、死にぎわに犯人の国を名指したこと
- 631年に百済の王子・豊璋が人質として倭へ来たこと
- 舒明天皇の晩年が百済宮・百済大寺・百済大殯と、百済の名に囲まれていること
- 中大兄に子ども時代の記録が一行もなく、皇太子でないはずの十六歳で突然「東宮」として現れること
- 642年の「島流し」の物語が、同じ書紀の中の記事と次々に矛盾すること(死んだはずの智積が生きている、流刑者が三週間後に都で「召され」太使と呼ばれる、漂着の記録がない、送還要求は拒否された)
- 鎌足が王族を「次々に試して」主を探したこと、蹴鞠の前から企てを胸に秘めていたこと、学問を人目をあざむく口実にして路上で謀議したこと
**父さんが考えたこと(仮説だ。お前は疑っていい)**
- 「韓人」とは、最初の一太刀を放った中大兄その人を指す、目撃者の証言だということ
- 中大兄皇子とは、六つで海を渡ってきた百済の王子・豊璋、その人だということ
- 642年の一行は流刑者ではなく、迎え入れる手はずの整った海を渡ってきたのだということ
- 中臣鎌足とは、あの船で来た百済の頭脳・内佐平の岐味だということ
- 夕暮れの路上の、あの会話
書いてあることだけでは、父さんの仮説は証明できない。それは正直に認める。だが、書いてあることを一つずつ積み上げていくと、教科書の物語のあちこちに、縫い目のほつれが見えてくる——それも、確かなことなんだ。
歴史の勉強というのは、答えを覚えることじゃない。**誰が、何のために、その物語を書いたのかを考えること**だ。今夜の話が信じられないなら、それでいい。図書館へ行って、『日本書紀』を開いて、父さんの間違いを見つけてきてくれ。それこそが、父さんへの、いちばんの返事だ。
外は、まだ雨が降っている。あの日の飛鳥も、こんな雨だった。
——七つの文字は、千三百年間、雨に打たれながら、ずっとそこに立っている。誰かが読みにくるのを、待つように。
(第一巻 了)
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*本作は『日本書紀』の記述を土台にした歴史小説です。作中で【原文】として示した引用および「書いてあること」として整理した事項は原典で確認できます。人物の同一性に関わる解釈および路上の会話は作者の仮説・創作です。