「こんなに可愛いと言われるのは、53歳にして人生初めて」 | Violet monkey 紫門のブログ

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十字架の国  1998 不思議の国、ZIPANG

 

 

 

 

「馬鹿にしてんでしょ。感じ悪いよ」“年齢確認動画が2億回再生”女優・赤間麻里子(53)が人生で初体験したこと

 
 

「こんなに可愛いと言われるのは、53歳にして人生初めてです。何をやっても可愛いって言ってもらえるので、監督に『これってどういう現象なの!?』って(笑)」

 

 

――赤間さんが出演する『年齢確認』シリーズは全部で4本ありますが、当初からシリーズ化の予定だったんでしょうか。 

 

「まったく決まっていませんでした。でも第1弾が予想以上の再生数を叩き出し、コメント欄では『おばさんが少女に戻って、これからどうするんだ?』といった考察合戦のようになっていたので、『第2弾作ったら喜んでもらえるかもね?』と」

 

――現実は厳しかった。 「はい。次第に『あれ、私この先、どうやって生きていくんだろう』って思うようになって。そんな時に、仲代達也さんと奥様の宮崎恭子さんが声をかけてくださったんです。奥様は私に、『やめてもいいけど、ここまでやっちゃったらやめても地獄よ』って」

『やめない地獄』を選んだ

――強烈な言葉ですね。 「『ここでやめたら、死ぬまで“私は諦めたんだ”と思う。でも、やめなくても売れないことの地獄がある。やっても地獄、やめても地獄なら、自分が後悔のない方を選びなさい』と言われました。仲代さんには『赤間は食えるような美人じゃないし、びっくりするほどの才能もないから、まあ60歳ぐらいまで情熱を燃やし続けられるエネルギーがあったら売れるかもね』って」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「でも、38歳のある日、その日のことは今でもはっきり覚えているんですが、まだ小さかった3人の子供を寝かしつけたあと、へとへとで洗濯物を畳みながら、テレビのスポーツニュースを見ていたんです。そうしたら、当時阪神タイガースにいた下柳剛投手のインタビューが流れていました。『40歳を過ぎても現役投手をされている理由は何ですか』と聞かれた下柳さんは、『みんなは40歳を過ぎるとやめる理由を探すけど、僕はやる理由を探し続けてやってるだけなんです』と答えていらした。私、それを聞いて号泣しちゃったんです。私は子育てが大変だからとか、そうやって言い訳をして自分が傷つかない引退の仕方をどこかでずっと探していた気がするんです。でも、本当は私、ずっと芝居がやりたかったんですよね」

 

「その数カ月後です。急に母から『無名塾のダメ出し帳がダンボールいっぱいあるけどどうする?』と連絡があって。捨ててもいいけどちょっと見てみようかなと思って取りにいったら、無名塾に入った初日の日記が出てきました。私はそこに『40歳になって何者にもなっていなかったら潔くやめること』って書いてあったんです。19歳の私にとって、40歳にもなって売れないのは、才能のない証拠。『しがみつくのはみっともなしいし、恥ずかしいから潔く辞めなさい』と、自分に警告していたと思うんです」

 

――その言葉を40歳を目前に受け取ってしまって。

 

 

「そのはずだったのですが、私、『わが母の記』の直後に、乳がんが見つかってしまって、3年ぐらいまた足止めを食らってしまったんです」

 

 

 

 

 

 

 

「2012年でした。わかった時にはすでに進行していて、医師からは右乳房を全摘出するしかないと言われました。けれども、そうすると胸元が抉れて、もう衣装が着られなくなってしまう。せっかく映画デビューして夢を掴んだのに、それだけは嫌だと、部分的に摘出することを選びました。そうしたら、やっぱりがん細胞が残っている可能性があると言われました」

 

 

「放射線治療と抗がん剤を限界までやりました。副作用で髪の毛が抜け、頭はツルツルになって……。副作用の影響もあり、3年間ぐらいはかなり精神的にもきつかったですね。ホルモン治療も受けたのですが、ホルモンの乱れから精神的なコントロールができなくなってしまうこともありました。自分でも訳が分からないまま、子供たちに暴言を吐いてしまい、子供が泣いている姿を見てハッと我に返り、自分も泣いて落ち込んで……」

 

――壮絶な闘病生活だったんですね。

 

「あの時はつらかったですね。なんで私ばかりがこんな目に、と思ったこともありました。でも、そんな時に、原田監督が『お前、今ハゲてるらしいじゃん』って、わざと明るく声をかけてくださって。『時代劇なんだけど、尼さんの役やらない? 体調はどう?』とオファーをしてくださった。それが『駆込み女と駆出し男』(2015)でした。病院の先生に相談すると、『肺炎になると命取りだから、風邪をひかないように気を付けてくれるなら』とOKをいただいたので、『やります!』とお応えしました」

 

 

「原田眞人監督には本当に感謝しております。不思議なことに、その後は次々と映画やドラマのお仕事が舞い込んで、結構、忙しかったですね。地方にも撮影に行きましたし、いくつかの作品では、カツラを被って撮影に挑みました。実は私、10年続けてほしいと言われていたホルモン治療を、3カ月でギブアップしたんです」

先の寿命を延ばすよりも、目の前の1、2年を大事に

――なぜですか?

「ホルモン剤の影響で顔が浮腫んだり、節々がリウマチのように痛くて仕事どころじゃなくなってしまって。何より、ホルモンバランスのせいで暴言を吐いて、子供たちを傷つけることが耐えられませんでした。当時は躁鬱状態で、もうこんな朝を迎えるくらいなら死んだ方がいいってくらい、つらい日もありました。でも死の恐怖よりも、子供に笑顔で接することができなくなったり、大好きな女優の仕事ができなくなったりすることのほうが、怖かったんですね。だから先の寿命を延ばすよりも、目の前の1、2年を大事に生きようと考えたんです」

 

 

「そうなんです。動画を見ながら、『この表情が変わるところが、好きなの! ここ!』と熱く語ってくださって(笑)。なんと、師匠である仲代達矢さんも見てくださっているんですよ」

 

「まだ『売れた』という実感はないんですよ。でもこの前、ほぼスッピンで買い物をしていたら、ママ友に、『わかる人にはわかるんだから、化粧した方がいいよ!』と叱られてしまいました(笑)。今はとにかくお芝居をしたい欲求が溢れでて、あれもやりたい、これもやりたい! 芝居ができるんだったらどこへでも行く! という気持ちですね。

 

亡くなった父は、私に手紙を遺してくれていたのですが、そこには『全身全霊で望む職業に就いたのだから、感謝して、最後まで全うしてください。僕は天国で宇宙規模のファンクラブを作って応援しています』と書いてありました。まだまだ頑張らないといけません」

 

 

 

 

 

 

 

 

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