9、テスト投稿・・・第四部① 女帝たちの悲願 | Violet monkey 紫門のブログ

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十字架の国  1998 不思議の国、ZIPANG

第四部 日出る国の神話

第一章 女帝たちの悲願

 

いつ 誰が なんのために

 

「第二次大戦が終わるまでは古事記といえば、日本最古の歴史書として神聖視されていたのが、敗戦後は、権威が地におちてしまった」

 

「いまは一般に、大昔の、ただの伝説集というくらいの認識になっているようだ」

 

「それにしても、いつ、誰が、なんの目的でこのような本を作ったのか、については、太安万侶(おおのやすまろ)の序文に、一応くわしく書いてあるね、・・・

 

『日本には古くから皇室をはじめ豪族たちの家に、それぞれの記録や神話、伝説や歌物語などが伝わっていたけれども、時とともに異説や誤りが多くなって、このままでは、なにが本当かわからなくなる心配があるから、天武天皇の御代(673-686)に、それらを比較検討して訂正したうえ、できるかぎり正確な記録をまとめて、後世に伝えようとした』・・・というわけだね。

 

もしこれがほんとうだとすると、古事記の本文はすでに天武天皇のときに大体できあがっていたことになる。

しかし問題の序文には、『資料は集まっていたのだが、なぜかそれを明らかに成文化しないまま月日が流れてしまったので、和銅四年(711)九月十八日に、時の元明(げんめい)天皇から、あらためて安万侶に対して、これを正確にまとめるようにと命令がくだった』ということが、書き加えられてある。しかし最近になって、梅原学というのが出てきた・・・」

 

「天孫降臨の神話は伝統をやぶる皇位継承の方法を、あくまでも正当化するために作りあげた話だっていうんだろう? あれは面白いね、ぼくらのような門外漢には、大いに好奇心をそそられる話だ」

 

「たしかに、七世紀から八世紀にかけて、女帝から孫へ皇位を伝えるということが、二度くり返されている。女帝の持統天皇から孫の文武天皇へ、そしてまた女帝の元明天皇から聖武天皇へ。・・・『しかし、これは決して異例のことではなくて、そもそも日本建国のはじめに女の神様の天照大神が、孫の邇邇芸命を統治者として指命したときに、定められた法則だ・・・と、公けに納得させるために作られたのが、天孫降臨の神話だ』という説だが、それだけでなく、この、梅原猛、上山春平両教授の説によると、この策謀を推進したのは藤原鎌足の次男の不比等で、彼は、古事記の編纂によって、女帝たちの悲願を成就させたことと同時に、じつは藤原家の独裁体制を固めるための裏付けの目的も、見事にやりおおせたというわけだ。

さらに梅原教授は、『天武天皇の命をうけて、古事記の原文を読みならって、それを太安万侶に口述筆記させた舎人{とねり}(天皇側近の侍者)の稗田阿礼{ひだのあれ}とは本当は藤原不比等のペンネームだった』、とも言っている」

 

「われわれは小学校の時、稗田阿礼は語部(古い伝承を口誦する半自由民)の女だったって教えられた記憶があるな」

 

「古事記には『氏は稗田、名は阿礼、年はこれ二十八』としか書いてない。しかし、もし天武天皇が稗田阿礼に、古事記を誦み習うことを命令されたのが崩御の年(686)だったと仮定すれば、不比等の年齢とぴったり合うんだ」

 

「なるほどな、・・・いずれにしても、不比等が古事記作成のイニシアティヴを握っていたというのは、充分ありそうだ」

 

注:紫門

紫門のブログ記事「万世一系1300年の嘘」において

藤原不比等とは・・・

天智天皇の子を身籠った妃を鎌足に下賜して生まれた子が不比等、

すなわち天智天皇の実子だと考えています

天智と鎌足は百済王族で

天皇家の乗っ取り・・・背乗りを企てていて

一度は天武天皇に計画を潰されながらも

藤原氏という形で百済王家の血を温存し続けます

天皇の妃を藤原氏から提供し続けることには

そのような目的がありました

さらに不比等は

美形で相当なイケメンであったようで

有力豪族の犬養一族の才女であった犬養三千代を妻に迎えます

 

 

 

 

「ただし欲をいうとね、もし天孫降臨の物語が、元明天皇時代の創作だったとしたら、一ばん最初に、誰が、どうやって、そんな策略を思いついたのか?・・・その火元が、もっとはっきりすると、この両教授の説は、さらに劇的で魅力あるものになると思うがね・・・」

 

「そのプロットを、最初に思いついたのは、不比等か、それとも持統天皇のほうか・・・さもなくて元明天皇か・・・しかも、いかなるいきさつで・・・」

 

「そうなると、急にあやしい影をちらつかせはじめるのが、問題の幻の奥義書なんだ。

なぜならば、古事記の内容や成立の情況が、旧約聖書と、あまりにもピッタリと符合しているからだ。

もっとも、こんなことをいうと、『それこそ偶然の一致にすぎない』ということで、日本国じゅうから攻撃されるだろうがね、・・・旧約聖書の創世記は、『はじめに神は、天と地を創造された』という書き出しになっているだろう、一方、古事記は『天地(あめつち)はじめて発(ひら)けし時、高天原(たかまのはら)に成れる神の名は天之御中主神』という言葉ではじまる。ただし聖書のほうはそれから先も、終始一貫、神はただ一人だが、古事記のほうは、文字どおり八百萬(やおよろず)の神々が現われてくる。その問題の解釈についてはあとで論ずることにして、とにかく創世記の『地は形なくむなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてを覆っていた』・・・につづく天地創造の物語と、古事記の、『国稚(わか)く、浮きしあ脂(あぶら)の如くして、海月(くらげ)なし漂へる時・・・』ではじまる国生みの話が、酷似していることを、まず挙げておいて・・・しかし、それよりもさらに重要なのが、いうまでもなく天照大神が天孫邇邇芸命に『この豊葦原の瑞穂国はわが子孫の統治すべき国である』と、命令するところだ。旧約聖書には、これとそっくりの場面が、何度も出てくる。その第一は創世記の第15章で、神はアブラハムに向かって、『わたしはエジブトのナイル河から、メソポタミアのユーフラテス河までの地を、あなたの子孫に与える』と約束する。そして次の出エジプト記では神はモーセに、『イスラエルの民を導いて、乳と蜜の流れるカナンの地へ行け』と命令する」

 

「『豊葦原の瑞穂の国は、わが子孫の王なるべき地なり』という言葉が、戦前の日本人なら、誰でも瞬間にひらめくな」

 

「・・・もっとも、イスラエルの十二部族はすぐには目的地に着けなかった。長い年月をかけて荒野を大迂同したあけく、第一世たちが死に絶えて二世の時代になってから、ヨルダン川の東側に出て、そこからようやく〈約束の地〉に入ることになる。

それがなんと、古事記のほうも、高天原から地上に降った邇邇芸命の一行は、それから三代の間、九州にどどまっていた・・・」

 

「そうだね・・・実際に葦原中国(あしはらのなかつくに)を征服する旅に出たのは、神武天皇だから・・・」

 

「その神武天皇、なぜか最終目的の大和に入る前に、わざわざ紀伊半島を大迂回して東から西に向かって進むことになる」

 

「ウーン、似てるな・・・十二部族をひきいたモーセやヨシュアの行動と・・・」

 

「それにヨセフの身の上が、いかにもわが大国主命(おおくにぬしみこと)の運命と似ていることについても、黙ってはいられないだろう? 

80人の兄神たちに嫉まれて何度も殺されかけて、旅のときは奴隷さながらに、みんなの荷物を入れた大袋を背負って歩いた。ヨセフもさんざん兄たちから迫害されて奴隷に売られたが、クライマックスは国王につぐ〈国のつかさ〉にまでなって、最後は離散して、失われた十部族の末路になる・・・大国主命も絶頂期は人びとの敬愛を集めたが最後は、国譲りの決断を余儀なくされた・・・そのほかにも古事記と旧約の細かな共通点は、どっさりあるけれども、全体的に共通する特徴としては地名や人名の由来を、あまり信用できそうもない故事来歴と無理にむすびつけたり、登場人物の系図を、その場その場でいかにも真実らしく、こまごまと書きならべているところなども、そっくりだ。

・・・しかし『大昔の神話や伝説というものは、どこへ行っても似たりよったりなのが、あたりまえ』という人も多いだろうから、しばらく問題の角度を変えて、古事記と旧約聖書のなりたちについて考えてみようか」

 

「しかし聖書にはすぺて神の言葉がそのまま書きとめてあるのだから、一点の虚権もない、という意識を、現代でも大がいのクリスチャンが持っているんじゃないだろうか、すくなくとも、ぼんやりと、くらいは」

 

「ところが、さっき言ったとおり、十八世紀末あたりから、わずかひと握りではあるけれども、いわゆる聖書批判学なる一派が現われた。

・・・『モーセの五書が、今日のような内容にまとめあげられたのは、ユダ王国が滅亡して、国民の多くが新バピロニァ帝国の領土につれて行かれたバビロン捕囚時代(B.C 597~538)以後であって、神のお告けを、そのままに書きとめたものではないこと』を、理路整然と立証した。そのために、聖書というものが、いつ、どうやって世に現われたのか、ということが、少しずつ、はっきりしてきた。

それにしても、なにからなにまでバビロン捕囚時代に創作されたわけではない。いわゆる〈モーセの五書〉の原型ともいうべき最初の文書が成文化されたのは、紀元前850年ごろのことだ、とわかった。これはユダ王国とイスラエル王国が分裂してから、80年もあとになってからなんだね。

そして、その内容というのは、今日のものから見て、ずっと簡単、素朴なものだったようだ。だが、そのころになって、なぜ急に、ユダ王国の中で、『自分たちだけが、唯一の神から選ばれた特別の民族である』ということを、とくに強調した歴史書を編纂する必要が生じたのだろうか? 

原因をたどっていくと、ユダ王国の初代の国王だったダビデの王位が、どのような経緯で、その子のソロモンに伝わったか? という問題を、究明しなければならなくなる」

 

「旧約聖書のなりたちも、王位継承の問題か・・・」

 

 

 

ソロモンは簒奪者(ヤコブ)だった・・・

 

 

「ダビデには、すくなくとも19人の男の子がいた(歴代志上3-1)その中でソロモンは年の順でいけば、まん中より下になる。もっとも、ダビデは死ぬまぎわまで、正式の跡つぎをきめていなかったらしい。けれどもいろいろの事惜から、四番目のアドニヤが、王位をつぐものと、大体において見られていた。つまり、ソロモンが王になるとは誰も思っていなかったんだ。

・・・にもかかわらず、なぜ、ダビデは、ソロモンに王位を譲ったのか?・・・実はそのとき、実際にダビデが生きていたか、どうかという疑いさえあるのだが、とにかく、ある日突然、ソロモンの母親が、死に瀕しているダビデ王に迫って、無理やりに『ソロモンに王位を譲る』と宣言させた。しかもそのとき、間髪を入れず、かねて待機していた祭司のザドクが、・・・彼は、ソロモンの唯一人の味方だった・・・ソロモンの頭に、王位継承の証しとなる〈聖なる油〉を注ぎ、ラッパを吹き鳴らして、『ソロモンが新しい王となったこと』を、公式に発表してしまった(列王紀上1章参照)。それだけじゃない。ソロモンはただちに兄のアドニアをはじめとして、反ソロモン派と思われる人間たちを、片っぱしから殺したり追放したりする一方、最大の功労者のザドクを、大祭司として神職の頂点に立たせ、しかも、その特権が永久に彼の子孫だけに相続されるという慣例の基礎をひらいた」

 

「天武天皇が死んだ直後にも、同じようなトラブルが、あったらしいな・・・」

 

「天武天皇は皇子十人。・・・もっとも、皇后を母とする草壁皇子(くさかぺのみこ)が皇太子ということははっきりきまっていたのだが、異母弟の大津皇子(おおつのみこ)の方が人望があったから、皇后(のちの持統天皇)は不安のあまり、ついに、天皇崩御から一カ月もたたないのに、大津皇子を謀叛の名目で死に追い込んだ。しかしこれが、持統天皇の側の誰かがしくんだ落し穴だったことは当時、すでに周知のことだったらしい」

 

「そのいきさつは万葉集の歌なんかからも、わかるな」

 

「権カで世間の噂は、抑えられないね、何千年後まで、こうやって、われわれにもなんとなく聞こえてくるんだから・・・ソロモンの問題にしても、彼が生きている間は、あまりにも権力が強大だったから、おそらく誰ひとりその不正行為をおもてだてて指摘することはできなかったろう。しかし、ソロモンが死ぬと間もなく、例のエフライム族を筆頭とする十部族が、新しくイスラエル王国を名乗って、ユダ王国と分裂した。・・・そして、彼らは公然となじったにちがいない・・・『ソロモンはヤコブだった』といって」

 

「ヤコブ・・・十二部族の生みの親だろう? アブラハムの孫で・・・そのヤコブだっていうと、なぜソロモンを非難したことになるんだ?」

 

「旧約聖書では、ヤコブをただの固有名詞に使っているが、元来は『とって代わる者』・・・それも、陰険な手段で、他人の地位を横取りする人間を意味する普通名詞なんだね、だからこそ、創世記(27章)では年とって目が見えなくなった父親をだまして、兄の相続権を奪い取った人物を、ヤコブという名で呼んでいるのだ」

 

「しかし、十二部族にとって最も大切な生みの親が、そんな卑劣な行為をしたと、わざわざ公の歴史書に、しかもヤコブという名前で残すというのは、ちょっとわからないね」

 

「おそらくヤコブの話は最初は単なる昔話の一つにすぎなかったと思うんだ。ところが偶然にも、この話は、ソロモンの王位継承のいきさつに似すぎていた。そもそも『老衰している父親をだまして、兄の家督権を奪え』とヤコブをそそのかしたのは彼の母親だったのだから。・・・だから、ユダ王国側にとって、『ソロモンはヤコブ(簒奪者)だ』という流言蜚語は二重三重の意味で、手痛い攻撃だったはずだ。そこで名誉を挽回しようと知恵をしぽった。その結果、『ヤコブという伝説上の人物は、実は唯一の神からカナンの地を約束されたアブラハムの孫で、イスラエル十二都族の生みの親であること、しかもそのイスラエルという名前も、ヤコブが神と相撲をとって勝ったから〈神をうち負かす者〉という意味のイスラエルと改名したのだ(創世記32-28)』というストーリーを、堂々とユダ王国の正史にのせることを思いついた・・・」

 

「待ってくれ・・・相当に複雑だな・・・そうなると、ソロモンを纂奪者だと非難するやつは、十二部族の生みの親を非難することになるし、さらにヤコブとイスラエルが同一人物である、となると、別れていったイスラエル王国側でも、ヤコブの悪口は言えないわけだな」

 

「つまり旧約聖書の最初の原典は、ことにヤコブをめぐる物語の部分は、こういう策略のもとに、ユダ王国とイスラエル王国の対立が最もきびしかった紀元前850年ごろに、ユダ王国内の知恵者、・・・おそらく例のザドクの子孫の祭司である誰かの手によって、作成されたに相違ないのだ」

 

「ヤコブの母親とソロモンの母親か・・・それを日本の歴史にあてはめてみると、古事記のなり立ちとも符合する・・・か」

 

「その意味で、まず第一ぱんに気になるのは、その当時の宣命{せんみよう}(みことのり)の中に、奇妙な言葉がくり返されていることなのだが・・・『不改常典{あらたむまじきつねののり}』という、異様な表現が、なんと三度も、元明天皇、聖武天皇、孝謙天皇の即位の宣命の中に現われる。・・・」

 

「不改常典というのが、そんなに異様か?」

 

「それまでは皇位は、父から子へ継がれるというよりも、むしろ、最も適任と思われる皇子へ譲られるのが慣例になっていたのが、天武天皇崩御のとき、のちに持統天皇になった皇后が、是が非でもわが子の草壁皇子を皇位につけたかった。ところが草壁皇子は若死したので、その後はさらに強引に幼年の孫を擁立することになった。これがのちの文武天皇だね。ところが、文武天皇もまた若死されたから、今度は草壁皇子の妃で文武天皇の母の元明天皇が、持統天皇と同じ立場で幼年の孫、後の聖武天皇が成長するまで、自分が皇位を預かっておく必要が生じた。しかしこれは、まったくの異例であって、当時の常識で考えられることではなかった。そこで『この皇位継承の経緯は、天智天皇が、永久に改めてはならないと定められた原則である』という説明をする必要があった」

 

「天智天皇の制定だという証拠は?」

 

「はなはだあやしい。もし本当なら、天智天皇の弟である天武天皇が、天智天皇の長子であった大友皇子を倒して即位したことが、そもそも不合理だ。・・・それはともかくとして、どう考えてみても、天智天皇が不改常典なるものを、言い残されたとは思えない。それで、説得力を、強めるために、『この不改常典という原則は、実は、神代の昔、皇祖天照大神が、皇孫遜遜芸命を豊葦原瑞穂国に降されたとき以来、連綿と伝わるものである』と説明する必要が起こった。・・・それが古事記編纂の由来である・・・というのが、梅原、上山両教授の論拠になるわけだ」

 

「・・・用意周到な知恵者がいたことは事実だな」

 

 

 

 

律令・遷都を企画させたもの

 

「そこで、もう一度、ソロモン即位のときの状況を考えてみよう。・・・誰の目にも、うさんくさいいきさつだったのに、おもてだっては一人も異議を唱えることができなかったのはなぜか?・・・それは、〈聖なる油〉なんだ。その当時、『一旦、聖なる油をそそがれて王となった者、つまりメシア=キリスト・・・に対してはいかなる理由があっても楯つくことはできないという、犯すべからざるおきてがあったからだ。・・・なぜ、聖なる油が、それほど絶対神性とされるのか、となれば、その根拠は、出エジブト記(4-13・14,27~31、28-41、30-22~38)にくわしく書いてある。ただしそれは、モーセの兄であるアロンの子孫と称するザドクの子孫たちが、後世に程造したことはたしかなのだが、面白いことにはね・・・前にも言ったけれども、・・・この出エジブト記に『これは彼(アロン)と、彼ののちの子孫のための、永久の定めでなければならない』(28-43)とか、『祭司の職は永久の定めによって彼ら(アロンの子孫)に帰するであろう』(29-9)という言葉が、なんべんも出てくるということなんだ」

 

「まさに不改常典だ」

 

「もちろん、これも、偶然の一致といってしまえば、それっきりのことだが、それなら一体、いつ、誰が、なんのために、その〈永久の定め〉なるものをつくりあげたのか? という問題ね、・・・何度も言ったけれども、今日われわれが手にしている〈モーセの五書〉・・・創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記という、このぼう大な書物が、忽然として現われたのは、バピロン捕囚時代が終わってから約100年ほど後に、〈第二のモーセ〉とよぱれる律法学者のエズラが、・・・これは例の祭司ザドクから数えて六代目にあたる祭司・・・彼が、解放後のエルサレム神殿の再建工事を督励するためにペルシア王の統治下にあったパビロンからやってきた。・・・これが、紀元前444年とも、398年ともいわれているのだが、彼はなんのために、宗教書というよりはむしろ法律の書と言いたいような〈モーセの五書〉をたずさえてきたのか?」

 

「それはさっきの話だろう? バビロン捕囚でエルサレムの都が、空き家同然になっている間に、周辺一帯に住みついた異都族を追い払う必要があった・・・」

 

「そうなんだ。ことに、旧イスラエル王国から移住してきたサマリアびとたちを、一掃するのが、ねらいだった。しかし〈モーセの五書〉の特徴はそれだけではない。ほとんど全編の記事が、すべてアロンの子孫、しかもその中のザドクの子孫である祭司だけに、都合よく構成されているということを、見逃してはいけないんだ。モーセの五書に、ただそう書いてあるというだけでなく、この記述が根拠となって、いわゆる〈第二神殿時代〉とよばれる、約五百年の間、・・・エズラがエルサレムに現われてから、紀元70年にエルサレムが陥落したときまでのこの期間、ユダヤ民族の最高権力はほとんど、ザドク家と、その一統であるサドカイびとの手にあった。

そんなことができた根拠はどこにあったのか、というと、ことのおこりは、初代のザドクが、ソロモンの頭に〈聖なる油〉をそそいだ唯一最大の功労者だったことからはじまるわけだが、そればかりでなく、その後の子孫たちが次つぎと工作した策謀の巧妙さは、驚くほかはない。しかしなんと、これが、わが藤原不比等のやりかたに、不気昧なほどよく似ている・・・」

 

「どうやら、問題が、核心に追ってきたようだ」

 

「不比等が、いつごろから、天武天皇の皇后だった持統天皇や、その皇太子の草壁皇子の妃で後に文武天皇を生んだ元明天皇たちの、最重要のブレーンになったのか、そして、その動機についても、はっきりしていない。しかし天武天皇崩御の3年後(689)に、その時すでに死期が迫りつつあった草壁皇子から、ひとふりの宝剣が不比等に贈られたことが記録に残っている。この宝剣はその後(697)草壁皇子の遺子の文武天皇の即位のとき、あらためて不比等から天皇へ返される。ところが、その文武天皇もまた、わずか25歳で崩御となって、その直前、この宝剣が再び不比等の手に波る、そして、養老4年(720)不比等が死んだ日に、当時皇太子だった、後の聖武天皇に、この宝剣が返されている。・・・ということは、すくなくとも、このひとふりの宝剣が、草壁皇子から不比等に初めて贈られたときから、彼は一貫して持統女帝や元明女帝の信頼を一身に担っていたと考えて間違いないと思うね。・・・つまり30年間、四代の天皇の絶対的支持の下で、彼は存分の活躍ができるわけだ。ところで、その間の彼の業績の中で、とくに力説しなければならないのは、第一がなんといっても大宝律令」

 

「そうだな、日本が、はじめて法治国家になったんだから・・・」

 

「それまで令(行政上のきまり)はあったが、そのきまりを破った者や、その他の犯罪者に対する罰則(律)が明文化されていなかった。その律ができて、一応、法治国家の体裁をととのえることになった」

 

「しかし角度をかえて見れば、窮屈になったこともたしかだ」

 

「うん、庶民はもちろんだが、皇族貴族といえどもこの律令に違反した場合にはたちどころに厳罰に処していいという、大義名分が成り立った・・・」

 

「そうか、・・・エズラがモーセの五書を持ってきたのと同じ効能だな」

 

「エズラ記には、彼は神の律法に照らして、ユダヤ教の信者ということは全ユダヤ民族だ・・・を裁き、その教えを守らない者を投獄し、財産を没収し、追放し、あるいは死刑にする権利を、ペルシア帝国の国王から与えられた、ということが書いてある。(エズラ記七章)そこで、その永遠の、定めである〈神の律法〉なるものは、いつ、どうやって制定されたのか? そのいきさつを証明するために、創世記はじめ、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記など、歴史書でもあり、宗教書でもあり法律書でもある、いわゆるモーセの五書が、入念に作りあげられた・・・」

 

「まてよ、・・・不比等が古事記を編纂したと仮定するとだな、まず新しい法典を制定した。そして、それを裏付ける皇位継承のきまりまでが、天地開閣(かいびやく)以来の、改ムマジキ〈永久ノ定メ〉であると宣言した・・・ということになるんだな、・・・ひっかかるよ、これは」

 

「そのうえ不比等の業績には、大宝律令や古事記のほかに、もう一つ大きな平城遷都があるね。元明天皇和銅三年(710)・・・このときから、いわゆる奈良朝がはじまって、青丹(あおに)よし奈良の都の時代が、七代の天皇の七十何年、つづくわけだ。東大寺の大仏ができあがったのは、不比等が死んで三〇年以上たってからの、聖武天皇の皇女(不比等の孫)の孝謙天皇天平勝宝四年(752)で、この大事業は聖武天皇の発願といわれている。しかしほんとうにそうだろうか? たしかに聖武天皇という人は奇抜な思いつきを、ただちに実行するという傾向はあったようだ。しかし日本全国に国分寺と国分尼寺をつくらせて、これとまったく並行して都に巨大なビルシャナ仏を建立しようという、あの周到にして遠大なプロジェクトは、平城京造営の当初から、不比等の胸中で練りあけられていたのではないだろうか?・・・この仮説には、いろいろの証拠があげられると思うんだが・・・かりにだね、もし不比等が、そういう理想を描いていたとしたら、彼のモデルは、どこにあったか・・・」

 

「もちろん旧約聖書といいたいんだろ?」

 

「例のダビデね、エフライム族の領地にあった契約の櫃をとりあげて、自分の居城のエルサレムに移したこと、そして、その子のソロモンの時代に、おそらく大祭司ザドクの発案だったろうが、エルサレムに、空前絶後の壮麗な大神殿を作って、すべてのユダヤ教徒にとって永遠の、唯一の聖地たらしめようとしたこと・・・もし不比等が、そういう過去の先例を知っていたとしたら?・・・」

 

「平城京の造営や大仏建立のアイデアにつながったか・・・」

 

「もう一つ注目すべきことがあるんだ。彼は、文武天皇二年(698)に、父の鎌足が天智天皇から腸わった藤原の姓を、不比等直系の予孫だけに限ることにして、それまで同じく藤原を名乗っていた一族を、もとの中臣に戻してしまった。その理由についてはいろいろ解釈のしようがあるけれども、律令政治の中央最高機関である太政官の実権を藤原不比等が握って、一方の、神社や祭祀に関してのあらゆる問題を統制する神祓官を、中臣家がもつことによって、政治、宗教の両面とも、藤原、中臣だけで支配しようという意志だった、と推測する人は多いんだ」

 

「中臣家はいうならばユダ王国の大祭司の家柄にあたるか・・・ザドク一門との類似性はますます濃厚だね」

 

「ところで・・・中臣家で担当する神事のなかで、六月と十二月の晦日におこなう中臣の大祓というのはとくに重要なもので、これは天皇以下万民の、ありとあらゆる罪をはらい清めるための神事だけれども、これとまったく同じといっていいのが、旧約のレビ記(23-32)に出てくる〈贖罪{ヨムキブル}の」日〉なんだ。ユダヤ教では七月一日が新年の元日で、天地創造の第一日を記念するわけだけれども、それに続く10日間はエデンの園を追われたアダムとエバによる人間の原罪をはじめとして、一人ひとりが、過去一年間に犯したすべてのあやまちを悔い改める期間でもあって、その最後の日、7月10日が、最も厳粛な〈贖罪の日〉にあたる。そして、その日、エルサレムの神殿でこの神事をおこなう特権は代々ザドク家・・・先祖がソロモンに塗油したザドクの子孫だけが握っていたのだ」

 

「日本の大祓は、そのヨムキプルだというのか・・・」

 

「偶然の一致というのは世の中にいくらでもあるよね、・・・しかし例の幻の奥義書なるものが日本に伝わってきていたとして、それを、藤原不比等が読んだと仮定した場合、大宝律令の制定や古事記の編纂、そして平城京造営の由来が、これまでより、はっきりしてくるのは事実だ」

 

「うーん、まあ、そこまでは一応、きみの仮説に可能性を認めるとして、・・・『皇太子が天折したあと、女帝が自分の孫に皇位を継がせたいために、女神の天照大神が孫の遜遜芸命に詔勅を出したという歴史を書かせた』という、梅原、上山両氏の説に対して、きみは、それが旧約聖書の翻案だ・・・という。しかしそれなら、天照大神の岩戸開きはどうだ?

・・・古事記の建国神話にモデルがあったという以上、安易に例外ということはゆるされないだろう? ぽくは、むしろ、古事記神話の中で、岩戸開きというのは重要なテーマだと思っているんだがね・・・」