8、テスト投稿・・・第四章② 神の知恵を求めよ | Violet monkey 紫門のブログ

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十字架の国  1998 不思議の国、ZIPANG

 

 

ナゲ・ハマディの発掘

 

「いま言った八千煩般若経ね、これは大乗経典のうちでも、最も初期のものの一つといわれているのだが、その中で釈迦が、奇妙なことを言っているんだ。・・・『自分の死後、五百年たつと、いま、わたしの説いているこの教え(般若経の教え)が、インドの南の方から伝わりはじめて、やがて東の方にひろまり、さらに北の地方へ流布するだろう』という予言だ。

実際にはこの般若経は釈迦が死んで五〇〇年にあたるころ書かれたのだが・・・そしてこの流布のルーツについても異本ごとにちがっているが、『南に始まって最後は北方へ』という点は、すべて一致している。そこから、従来の仏教学者の中には『大乗仏教は、南インドのアンドラ王国あたりで発生したのではないか』という説もある。この説にもかなり根拠があるのだが、もしも、この八千煩般若経の記述が、〈般若経の原典がインドに伝来したコース〉を、逆に予言の形で暗示していると考えてみたら、どうだろう」

 

「〈お釈迦さまの説法〉が外来したと、あからさまに言えないからですか?」

 

 

「その当時の、エジプトからきた貿易商たちは、アラビァ海を横切ってマラバル海岸につくと、今度はインド大陸に沿って北上してインダス河に入って東へさかのぼる。それが、さらに中流からガンダーラ地方へ北上する・・・これはこじつけすぎると思うかもしれないが、もし、大乗仏典の原典が、はるか西の国から海をわたってインドに運ばれたものだとすれば、八千煩般若経の最後で、『この世でもっとも深遠な奥義(知恵の完成・・・般若波羅密多)の経典は、今や世界の東のはての、黄金の都の大貿易商の邸内に秘蔵されてある』と、ことさらに強調しているのが、無意味ではなくなってくる・・・と、なるとだね、般若経にしても維摩経にしても、それから法華経にしても、それらはあるぼう大な教典の一部分を、それぞれ抜粋して翻案したにすぎないものであって、本来の奥義書の最も本質的な部分・・・つまり奥義中の奥義だな・・・は、まだ、どこかにそっくりしまわれている、という解釈だって、できそうだ。桃棲じいさん流に推理すれば」

 

「そのことだけれども、いわゆる初期の大乗経典が、次々と世に現われはじめたころ、最初は、一般からあまり相手にされなかったらしい。なにしろ、それまでの上座部仏教の教義とはあまりにも異質である理論を、いかにもSF的な構想で展開するのだから、その当時の大衆の耳には、ただの幻想物語としか聞こえなかったかもしれない。

ところが、二世紀のなかばすぎてから・・・三世紀とする説もあるが・・・南インドに、ナーガールジュナ(龍樹)という、まさに空前絶後の偉大なる仏教学者が現われて、大乗経典、とくに般若の思想に関する、鋭い、しかも精緻をきわめた解説書を著した。じつは中国やチベット、朝鮮、日本が、大乗仏教を信ずるようになったのは、この、ナーガールジュナのすぐれた註釈を通して、深遠な教理を理解できたおかけだといっても、言いすぎでないはずだ。

 

注:紫門

予言漫画で有名な「たつき涼」さんの「たつき」は

「龍樹」と自筆しています

ところでこの龍樹、若い頃はとんでもない奴で

宮殿の後宮の美女たちとヤリまくって殺されそうになります🤗

 

彼の仏像は蛇だらけです

 

 

 

 

それにしても、ナーガールジュナは、一体どうやって、そのような、並はずれた能力を身につけたのか? となると、ふしぎなことに、それが、まったく謎なのだ。ヒマラヤの山中で、仙人から大乗教義の奥義をさずかった、とか、竜宮へ行って、七つの宝蔵の中の櫃に封じこめられてあった奥義書を発見した、とか、伝説はいろいろあっても、とりとめのないものばかりだ。そこで、『ナーガールジュナこそ、大乗経典の原作者ではないか?』と想像する人さえある。しかしナーガールジュナは、どう見積っても二世紀半ぱより前の人物ではないこと、そして彼の書いた論文の用語は、いずれも正確な標準サンスクリットで、いわゆる初期大乗経典に特有の癖がないという点からも、彼が、般若経や維摩経の作者だということは、ありえないだろう。しかしさっき君が言ったように、まだ世に現われていなかった大乗仏典の根源というべき奥義が、どこかにかくされてあったのを、ナーガールジェナが、さがしあてた、ということは、充分、ありうることだね」

 

「竜宮へ行った、というのは、アレクサンドリアあたりか・・・」

 

「もちろん、そう考えられないこともない。ただしほとんどの仏教学者が、『とんでもない見当ちがいだ』といって憤概するだろうけれども」

 

「『同一根源であるはずがない』・・・か?」

 

「大乗仏教の中心になっている思想は「空」だ。『なにものにも執着せず』『いかなる固定観念にもとらわれず』・・・ところで、この思想を、どこまでも拡大していくと『菩提(さとり)も煩悩(まよい)も仏も魔も、善も悪も一つであって区別はない』ということになる。そして最後には、『ありとあらゆる存在に仏性(仏となる可能性)がある』ことになる。それにしても、この思想を、大乗経典の中ではっきりと謳いあげたのは、三世紀から四世紀にかけて現われた如来蔵経や、勝蔓経や涅槃経だったわけだが、しかしここまでくると、『これはまったく仏教独特の境地で、西欧の宗教にも哲学にも、そんな思想はない』と、大ていの仏教学者が断言する」

 

「東は東、西は西・・・だな」

 

「じつはね、この桃棲じいさんも、若いころは、ほんとうにそうだと思いこんでいたよね・・・ところが30年ほど前、うん、第二次大戦が終わった年の暮れに、エジブトで、とんでもないものが出てきた。ナィル河のほとりの、ナグ・ハマディという町に近い、山沿いの崖で、一人のアラブ人の農夫が、素焼きの壷を掘りあてた。・・・1メートルぱかりの。その中から、13冊のパピルス本に書かれた、52編の、コプト語の古文書が出てきた。しかしそれが公開されて、一般人が読めるようになったのは、ごく最近のことなんだ。・・・その中に、〈トマスによる福音書〉というのがある。それを、はじめて見たとき、われをわすれてアッ! と叫んでしまった。・・・」

 

「ホウ・・・桃棲じいさんでも驚くことがあるんだな」

 

「そのわけは・・・ああ、その前に、さっき言った『すべての衆生に成仏の可能性がある』という考えかたね、これを、はじめて具体的に説いたものとして有名な、如来蔵経のことを話す必要があるな・・・この経典は『ある夏の暑い目に、釈迦がおおぜいの弟子たちと一緒にいたとき、目の前に無数の蓮の花が咲いて、その一つ一つに仏が一体ずつ鎮座している光景が現われた。・・・ところが、よく見ると、蓮の花の花弁が枯れかけて、黒ずんで悪臭を発してさえいる。にもかかわらず、その花の上の、おのおのの仏の姿は光り輝いているんだ。それを見て一人の菩薩が、その光景の意味するところをたずねると、釈迦は、『この世の、いかなる醜いものにも仏性はあるのだ』と答えて、『一粒の木の実にも、一枚のぼろ布にも、ごみ捨て場にも、大小便にも、仏性が宿っている・・・という意味のことを、くり返して説ききかせる・・・」

 

「なるほど・・・その、ごみ箱の中の塵芥も仏だという哲学を証明するためだったんだな? きみが華麗なる劇場生活の将来を捨てて、終戦後のパタヤ都落に住み込んだのも・・・」

 

「・・・ところが、だ、例のエジプトのナグ・ハマディで発見された〈トマスによる福音書〉を読んでみたら、なんと、如来蔵経の中で、釈迦が説いているのとそっくりのことを、イエスが、トマスに語っている・・・」

 

「あのトマスだな? さっきからの話の」

 

「まちがいなく、そのトマスだ。・・・だから、〈トマスによる福音書〉は、『これは、隠された言葉である。これを、生けるイエスが語った。そして、デドモ、ユダ、トマスが書きしるした』という言葉ではじまっている。

この、デドモというのはギリシャ語で双子のという意味で、トマスもアラム語の双子だ。それにしても、なぜ〈双子〉ということに、それほどこだわるのだろうか? じつは、例の〈トマス行伝〉(第四)に、『キリストの双子』という言葉が出てくる。っまり、シリア教会の伝承ではイエスとトマスは双生児だったことになっているわけだ」

 

「トマスが、正統派から異端とかグノーシスとかいって排斥されたっていうのは一つはそんなところに理由があるんじゃないのか?」

 

「しかし〈トマスによる福音書〉を貫いている〈イエスの教理(隠された言葉)〉は、『神(父)とイエス(千)が一つであるように、この世のありとあらゆるものが一つである』したがって『この世のすべてのものが神の子で、イエスと双子だ』(ヨハネ17-21,22,23参照)ということになる・・・しかしほんとうは、すべてのものが双子どころかイエスと一身同体なのだ。だから〈トマスによる福音書〉が書いている『・・・イエスが言った。〈わたしは、彼らのすべての上にある光である。わたしはすべてである。すべてはわたしから出た。そして、すべては、わたしに達した。・・・木を割りなさい。わたしはそこにいる。石を持ちあけなさい。そうすれば、あなたがたは、わたしをそこに見出すであろう〉』」

 

「なるほど・・・釈迦と同じことを言っているのか・・・〈ごみ捨て場〉だの〈大小便〉という言葉は出て来ないにしても、言わんとしてることは同じだ・・・」

 

「でも、ほんとうに、それはイエスの言葉なんでしょうか」

 

「それは、なんともいえない。元来、四つの福音書にある言葉だって、『本当にイエスの言葉だ』とは、誰にも証明できないのだから。・・・しかしこの『わたしは光である・・・木を割りなさい・・・石を・・・わたしはそこにいる』という言葉と、ヨハネによる福音書(8-12)の、『わたしは世の光である。わたしに従って来る者は闇のうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう』とか、ルカによる福音書(17-21)の『神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ』というのが、まったく共通の思想の上に芽生えたものであることは、たしかだろうね」

 

「それこそ同じ源から、だな」

 

「一言でいえば、『本来の自已を思い出ぜ』だ・・・」

 

 

 

 

 

 

神の知恵を求めよ

 

「例のトマス伝に、それをもっとも具体的に語っている寓話がある。その主人公は、東洋のある国の若い王子で、エジプトの海にいる巨大な龍がもっているという、秘宝の真珠を手に入れるために出かけていく。だが、龍の棲家の近くで機会をねらっているうちに、その国の世俗の風習に染まりすぎて、自分が王子であったことも、龍の秘宝を手に入れる目的もわすれてしまう。国王は本国にいてそのことを知り、『本来の自已を思い出せ』と手紙を書き送る。それでわれに返った王子は、めでたく本懐の宝を手に入れて父の国へ帰った・・・シリア語の原典では、とくにこの物語の部分が、見事な韻文で書かれていて、〈真珠の歌〉として文学的評価も高いそうだ。しかしキリスト教の神学的立場からは、『グノーシス的異端思想』と非難されて片づけられている。

ところが法華経には、これとよく似た、というよりは、おそらく同根から生まれた、としか考えられないような寓話が、くり返しあらわれる。たとえぱ信解晶(しんげほん)に出てくる〈父と子の再会の話〉ね、ある大金持と幼いひとり息子が、なにかの原困で生き別れになって、何十年かの月日が流れた。息子は乞食同様の身となって流浪の末、ある日、偶然に父の邸の前を通りかかる。父は、ひと目で、それがわが子であるとさとって名乗ろうとするが、自分を生来の貧乏人だと思っている息子は、おそれて逃け出してしまう。やむをえず父は、その息子を、便所掃除の人夫として雇い入れる。年月がたつうち、息子は、その邸の中で少しずつ地位が上がって、やがて父の全財産を管理する仕事も、立派にこなせるようになる。そこで、この金持は、はじめて自分が父であることをうちあけて、その大身代を全部息子にゆずり渡す・・・」

 

「われわれは、もともと神の子なんだから、それを思い出せ、というんだな」

 

「似てるのはそれだけじゃない。法華経の五百弟子受記品には、こんな話もある。・・・ある貧しい男が、親友の家で馳走の酒に酔って眠ってしまう。親友は急用で外出しなければならなくなったので、高価な宝石を、熟睡している友だちの着物の内側に縫い込んで出て行く。あとで目がさめた男は、それに気づかないままで出発して、その後も、長いさすらいの旅をつづける。しかし後日、ふたたび親友に会ったとき『お前の着物には、宝石が縫い込んであるのだぞ』といわれて、はじめて自分が、莫大な富の持主であったことに気づいた、という物語・・・」

 

「・・・『本来の自已を思い出せ』なんていう思想はなんとなく古風なようにも聞こえるが、考えてみると、実は非常に新しいんだな・・・DNAのしくみを、どこまでもたどって、現在200万種にわかれている地球上の生物の、最初の生命の〈誕生前夜〉の秘密をつきとめようとする、生命科学のテーマでもあるし現代の天文学が、250億年前には、宇宙の全物質が、一点に凝縮していた』というところまできているのと同じじゃないか」

 

「科学と宗教はまったく相容れないもののようにいう人がよくあるけれども、すくなくとも、イエスは、そんな考えかたをしていなかったはずだ。・・・『求めよ、そうすれば与えられるであろう。・・・門を叩け、そうすればあけてもらえるであろう』(マタイ7-7・8、ルカ11-9・10)というのは、『一心に神に祈れぱ、なんでも希望が叶う』ではないんだ。これは旧約聖書の歳言(しんけん)(8-34・35)にある、『日々わたしの門のかたわらでうかがい、わたしの戸口の柱のわきで待つ人はさいわいである。それは、わたしを得る者は命を得、主から恵みを得るからである』という言葉をさしているのであって、ここに出てくる〈わたし〉とは〈知恵〉なのだ。それは、この世のはじめから存在する〈神の知恵〉(8-22~31参照)だ。ギリシャ流なら、グノーシス、インド流ならハンニャの智慧だ。宇宙万有の真理なんだ。・・・面白いことに、法華経(方便品)では、『仏は、ただ一大事のためにのみ世に出現する。それは、仏知見(仏の知恵)を衆生に悟らせることだ』と、宣言している」

 

「元来、本当の宗教っていうのは、グルーブのエゴに都合のいいドグマを押しつけることじゃないはずだものな・・・一人ひとりが、真理探求に全能力を傾ける・・・それを助長するのが社会の指導者の役目だろう」

 

「人類が、このことに目覚めはじめたのはいっごろからだろうか? それは、イクナトンの時代なんていうものじゃない、すくなくとも、五、六千年前、いや、もっとずっと前からごく一部の人間は気づいていたはずだ。・・・だのに、二十世紀の今目になっても、宗教を、あくまでもネガティヴの方向に引っ張ってゆこうとする勢力が、世界的に強大なのはなぜだろうか」

 

「きみが幻の奥義書をさがす執念が、少し理解できてきたよ・・・きみが知りたいのは奥義書そのもののありか、というより、『なにが奥義書を世に出させないのか?』なんだ・・・」

 

「しかしそのからくりを見破るにはやっばり、克明に、幻の奥義書の行方を追う以外にないだろう。イクナトンのつかの間の都だったテル・エル・アマルナからはじまって、カイロの町の下に埋まっているオンの神殿=ヘリオポリス・・・」

 

「パレスティナ地方にはエフライム族の遺跡が無数にある・・・ヨルダン川の向こうにはエレミヤ、か? 彼が契約の櫃をかくした神の山ネボ山だったな? ・・・がある・・・それに十部族の行方さがしなら、エチオピアにも行かなければならないだろう?・・・」

 

「ヨハネが黙示録を書いたエーゲ海のバトモス島にも行きたいと言ってらしたでしょう?」

「小アジアには、ヨハネのグループが、福音書や書簡を書いたということになっているエフェソスや、トマスの墓があるエデッサ(今日のトルコ領のウルファ)がある」

 

「しかしトマスの足跡となると、インド全体をさぐる必要があるんじゃないのか」

 

「まず第一にガンダーラ地方。ことに、ゴンドファレス王の都があったタキシラ。それに、〈維摩経〉のヴィマラキールティがいたガンジス河の中流にあるヴァイシャリー、ナーガールジュナが住んでいた南インドのクリシュナ湖畔・・・」

 

「マラバルのクリスチャンのいるところ・・・」

 

「ケララ州のコッタヤムという海に近い町。そこに〈聖トマス教会〉の本部がある。それからトマスが殉教した山があるマドラス・・・調べたいところは限りなくあるね・・・しかしそういう所のすべてを後まわしにしても、第一ばんに、徹底的にさがさなければならない大切な国がある、」

「大秦寺があった中国か?」

 

「・・・日本・・・」

 

「日本のどこ?」

「それはわからない。しかし問題の幻の奥義書は、まちがいなく日本に伝わっている・・・」

 

「田道間守が持ってきたからか?」

 

「それも一つの仮説だが、とにかく、古事記全体の組み立てから、その暗示がにじみ出ているんだ、」

 

「きみが最初に言った、古事記そのものが謎だ、というのは、それなのか・・・」