カウントダウンはまた延長戦になりました
😀
「親ガチャ」考。
— shinshinohara (@ShinShinohara) November 29, 2023
最近、親ガチャという言葉をよく聞くようになった。生まれた家によって子どもの環境が決まってしまうのは昔からの話だが、ここにきてなぜ「親ガチャ」という言葉が根付いたのだろう?ということを、昨日のウェブ飲み会で話し合った。その中で、面白い指摘があった。じゃりン子チエ。
「親ガチャ」考。
最近、親ガチャという言葉をよく聞くようになった。生まれた家によって子どもの環境が決まってしまうのは昔からの話だが、ここにきてなぜ「親ガチャ」という言葉が根付いたのだろう?ということを、昨日のウェブ飲み会で話し合った。その中で、面白い指摘があった。じゃりン子チエ。
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テレビアニメのその番組で、チエは見事な「親ガチャ」だといえる。夫婦は別れてお母さんはいない、父親はバクチとケンカばかりするろくでもない男。チエはしばしば「うちは世界一不幸な少女や」と愚痴るシーンがあったように思うけれど、その割にタフでいつも明るい。ホルモン焼き屋を自ら経営。
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そして肝心なのは、私の子どもの頃、こうしたチエみたいな存在を、必ずしも非現実的だとは感じなかった、ということ。こうした子どもはいるんだろうな、という感じ。実際、私の知っている人でも、建築用重機を貸し出す会社の社長もなかなかな子供時代を過ごしていた。
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戦争でみなしごとなり、食べるものがないから兄弟二人で牛乳配達の牛乳を拝借して腹を満たしていたという。まあ、泥棒。でも、牛乳がなくなるのをどこかで分かっていて、それを大目に見てくれているな、というのが分かったという。で、どこでどういう経緯だったかは忘れたけど、社長になったという。
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じゃりン子チエに話を戻す。「親ガチャ」でいえば見事な親ガチャだけど、なぜチエは苦労しながらもしっかりした女の子に育ったのだろうか?商店街ではないか、という気がする。親以外にも大人たちがいて、チエがやっていけるように手助けしている。チエは親以外の大人から学んでいたのかな、と思う。
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私の小学校では、二人変わり者がいる、と言われていた。一人が私なのだけど、私としては釈然としない。それはそうとして、もう一人は、パンツもズボンもゴムが切れていて、いつもおしりが半分見えていて、鼻水をいつもたらしていた子。まったく勉強が手につかず、大丈夫かいな、という子だった。
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その母親が変わっていた。その子がその日、食事がない様子だったので我が家で晩御飯を食べさせていた。すると母親が来て「私も食べたい」と言い、好きなことをしゃべり、特に礼も言わずに帰っていった。高学歴で大きな会社で勤めているそうだったが、今でいうネグレクト(育児放棄)状態だった。
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あれではまともに育たないだろう、と、子ども心に私も思っていた(私ももう一人の変わり者だったが)が、大人になってからその子の消息を聞いた。ご近所の、お子さんがいない老夫婦が見るに見かねてその子の面倒を見るようになり、その後、旧帝大に現役合格したという。
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親がアレでも子は育つ。そんな実例を私も知っていたので、じゃりン子チエは実際あり得るだろう、と当時は考えていた。ところが、今の日本社会でじゃりン子チエは成立するかというと、私には想像できない。かなり難しいことのように思う。なぜか。「大人が隠れている」からだ。
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今の日本では、全国のほとんどの商店街が「シャッター街」になっている。大型小売店が繁昌し、商店街には足を運ぶ人がいなくなり、自営業の人が減った。90年には1395万人いたのに、2011年には711万人へと半減。自営業が減った代わりに、多くの人がサラリーマンになった。
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「3年B組金八先生」なんかでも、初期の頃は親の店や工場を継ぐという生徒の話が結構出ていた。自営業はとても多かった。しかし今や、高校や大学を出て仕事をするということは、どこかの企業に就職するというのとほぼイコール。家の仕事を継ぐ、という人の割合は非常に少なくなっている。すると。
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子どもの目から、大人が消えた。昔だったら、「お前、学校行かずにぶらぶらしているんだったら、うちの店手伝えよ」と言ってくれる商店街のおっちゃんおばちゃんがいたりした。大人が近くにいたし、どうやって生きているのかというのも間近に見ることができた。しかし今の大人たちは。
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ビルの中に隠れて見えない。会社から戻ってきたと思ったら家の中にこもっているからやっぱり見えない。今の子どもたちにとって、大人は親だけ。親しか大人のモデルはいない。親以外の大人から影響を受けたり、補助をもらったりすることが非常に難しくなっている。
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昔は、「第三者の大人」が町中にあふれていて、子どもたちの様子を見てくれ、気にもかけてくれた。子どもたちもそうした身近な大人たちを見て、親以外の大人の存在を知り、必ずしも親をモデルにしなくても生き方を学ぶことができた。しかし今の日本では、それが難しい。
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私の記憶では、「親ガチャ」という言葉が出る前に「毒親」という言葉が広がっていたように思う。そしてそれに少し遅れて、学校の担任の先生のアタリ外れを指して「担任ガチャ」「先生ガチャ」という言葉が出て、それが融合する形で「親ガチャ」という言葉が出てきた、という印象を持っている。
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「毒親」という言葉にしても、もともと、昔の小説や電気なんかでも、親とそりが悪い子どもの話はよく出ていた。夏目漱石なんかは養子になっていて、養父母は「子どもからの愛情競争」をして、自分の方が子どもから愛されていると競い合いをしていて、漱石はビミョーな気分になっている。
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でも、そうした説明的な感じで親の問題を紹介することはあっても、「毒親」などと端的に表現する単語はついぞ現れていなかったように思う。ここに来て、なぜ「毒親」や「親ガチャ」という端的な言葉が成立したのだろう?
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日本だけでなく東アジアでは、親孝行が重要な道徳だとされている。中国の伝説上の帝王、舜は、親から何度も殺されそうになり、罠にはめられている。それでも決して親孝行をやめようとしなかったということで高く評価され、堯帝から帝位を譲られた、という話まである。
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親孝行ぶりを高く評価する話から、東アジアでは親孝行が倫理道徳の筆頭となっており、子どもは親を尊敬し、奉るものだ、ということになっていた。ある種の呪縛。その呪縛を解くために、「毒親」という言葉が生まれてきたように思う。やっぱりそうはいっても、ひどい親というのはいるよ、ということで。
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でも他方、「理想的な親」はいるのか、というと、疑問。人間だから。名前を思い出せないけど、昔の小説家で、富裕な家に生まれ、何の苦労もしたことがないことに気を病んでいた人もいた。親の欠点をあげつらおうと思えば、いくらでもあげつらえる。人間なんだから。
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私は18歳くらいの頃から、親からずっと言われていたことがある。「20歳になったら自分を再教育しなさい。親は完全な人間ではなく、ゆがみがある。そのひずみをお前は受け継いでいるかもしれない。また、ここでお前にこうしてやりたい、と思ってもできなかったことがたくさんある。」
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「もう大人になってしまうお前に、親としてできることはもうほとんどない。お前の中にあるひずみは、おまえ自身で修正する必要がある。20歳になったら自己分析し、自分を再教育しなさい」と。いわば、自分自身の棚卸だ。
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20歳になったら、私は自己分析を始めた。というとかっこいいようだが、要するに、気づいたことは何でもメモするということ。好きなものはなぜ好きなのか、嫌いなものはなぜ嫌いと思うのか、女の子を見てドキドキするのはなぜか、嫌なことを言われて嫌だと思うのはなぜなのか。全部メモ。
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その作業を3年ほどやり、どうやら自分という生き物のクセが見えてきた。自分はもっとすごいことをやる人間になってみせる!とか、若者ならではの幻想も抱いていたが、「うーん、でもどうも、こんくらいだね」という現実が見えてきた。その上で、「ま、できることからやっていこうか」と思えるように。
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また、親の影響を強く受けてきたわけだけれど、親の長所と欠点も見えてきた。そしてそれによって良い影響を受けたり、悪い面もあったり。でも、親に文句を言っても仕方ない。もう大人になっちゃったわけだし。親から受けた悪い面は、自分でどうやって補っていこうか、と考えるようになった。
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その際、当然ながら役に立ったのは、親以外の大人たち、あるいは友人、あるいは赤の他人(本の中の人も含めて)だった。親以外の大人の人を観察し、自分の親にないもの、自分にないもの、それを取り入れるにはどうしたらよいかなどを考えた。親以外の人たちも、重要なモデルとなった。
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確かに、「親ガチャ」というしか他のない、親からの悪影響を深刻に受けたケースも多々ある。その場合、巨大なマイナスからのスタートだ。親を呪いたくなるケースがあるのも無理はない。ただ、悲しいことに、親を呪っても事態は改善しない、という現実も一方で存在する。
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私たちの生きる社会システムでは、成人し、大人になると、親に大きな問題があったとしても、それをリセットする形で「で、あなたはどうするの?」と扱われる。大きなハンデを背負っていても。でも逆に言えば、ハンデを背負っていても、私次第、ということもできる面がある。
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ハンデが少しでも軽くなるよう、親ではない第三者が関わることができ、そして本人も自分の棚卸をすれば、親の影響下から抜け出すことは、原理的には可能。じゃりン子チエのように。ただ問題は、第三者の大人が「ビルの中に隠れている」。出会おうにも、親以外の大人に出会うことができない。
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親以外の大人とつながることができない、関わることができない。そのことが、「毒親」「親ガチャ」という言葉がすっかり定着する背景になっているのではないか。親以外の大人に出会えない、隠れてしまっている。そのことが、子どもたちを救い難い状況に追い込んでしまっているのでは、と思う。
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じゃりんこチエ。確かに
親ガチャって個人的には
もともと
学齢期の家庭依存度がOECD調査で最大だった日本
(確か。でもデータ有料で引っ張れない)
さらに
学びを支える非認知能力系は幼少期の環境により依存
そして
近年のジニ係数は米国より深刻化の日本
これが顕在化してきた...だけの感
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平成生まれ以降は少数派だと思いますが、ギリ昭和生まれくらいは商店街のおっちゃん・おばちゃんの代わりに「友達の家の親」がまだ多少は良い意味で干渉してくれました。少なくとも子どもがどんな様子でいるかはわかってくれていた。ゲームもゲーム機のある友達の家に集まってやってましたので、ファミ…
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拝読。
もうひとつだけ語られていない(と思われる)ことを。
大人の側が関わりたいと思ってもそれ自体を躊躇せざるを得ない風潮も。
現代では、大人が他人の子どもに関わることは「悪」と直結する行為であると判断される方が常態に近い。本来なら注意すべきことも、自己防衛のため見過ごしてしまう。
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ネット社会になりよく聞くようになったのかな…
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昔から親ガチャ要素はあったんですよね。
親に恵まれないみたいな感じでただ表立ってなかっただけで...。
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誰も言えなかったことを言える世代が出てきた。
それがZ世代だと思ってます。
親毒という言葉も中々強烈、、、
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めちゃくちゃ興味深い…
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親ガチャねぇ…まぁじゃりン子チエの話はわかるけど…この漫画大好きで結構観てたし
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けど結果的に逞しくチエちゃんが奮闘して幸せな日々が訪れている訳だよね。
スタートの違いはあれど…自分次第で変われるって事だよね。
結論…親ガチャは生まれてきた時点で大当たりだってこと
。
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「親ガチャ」って言い出した人誰なんだろ
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なるほどー( ಠдಠ)
実に興味深い
|NFTブロガー|MetaKozo| MetaSamurai2 1BLOCK
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まじか
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おもしろいなぁ
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興味深い考察ですね。
まさにそういうことなんだろうと思います。
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"責任"を持ちたくない大人が増えた。
だから、結婚をしない、子どもを産まない。
サラリーマンもそう、自営業より安定して見えるからみんなそちらを選ぶ。
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そういう諦めの境地がガチャという表現に出ていると思います。
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この考察は興味深いし納得がいった。確かに近所付き合いも少なくなり子供の目から第三者の大人の存在は減ってるように思う。
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じゃりんこチエ。確かに
親ガチャって個人的には
もともと
学齢期の家庭依存度がOECD調査で最大だった日本
(確か。でもデータ有料で引っ張れない)
さらに
学びを支える非認知能力系は幼少期の環境により依存
そして
近年のジニ係数は米国より深刻化の日本
これが顕在化してきた...だけの感
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2023を超える年はしばらく来ない
それくらい酷
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とても興味深い話。
個人経営の店舗が集まってる商店街がシャッター街になってたり、なくなって再開発されてるのだけは、自分にもよく分かる。
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実に興味深い
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大人の側が関わりたいと思ってもそれ自体を躊躇せざるを得ない風潮も。
現代では、大人が他人の子どもに関わることは「悪」と直結する行為であると判断される方が常態に近い。本来なら注意すべきことも、自己防衛のため見過ごしてしまう。
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親ガチャに外れた場合、その子供に1番近いのが「“耳障りの良いことを喋る面倒見の良さそうな”悪い大人」なのも現代の問題かな、と
でも子供も馬鹿じゃないのでなんとなく分かってるんですよね。「でもそれでもいい、親よりマシ」と。
そういう諦めの境地がガチャという表現に出ていると思います。
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拝読。
もうひとつだけ語られていない(と思われる)ことを。
大人の側が関わりたいと思ってもそれ自体を躊躇せざるを得ない風潮も。
現代では、大人が他人の子どもに関わることは「悪」と直結する行為であると判断される方が常態に近い。本来なら注意すべきことも、自己防衛のため見過ごしてしまう。
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彼女はおばあちゃんが当たりだったから。
※売るホルモンもおばあちゃんの店(おなじホルモン屋)から分けてもらってる。
なお、大阪の冬は気温は低くないが風が強くて体感温度がねえ・・
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わかります。私も引きこもり不登校だったけど、携帯欲しさに勢いで始めたバイト先で、今の自分より年下のパートのお姉さんや店長に受け入れられた事がきっかけで社会に出られました。家庭や学校以外に自分の居場所を見つけられたら、社会は案外悪くない所と気づける。
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わかります。私も引きこもり不登校だったけど、携帯欲しさに勢いで始めたバイト先で、今の自分より年下のパートのお姉さんや店長に受け入れられた事がきっかけで社会に出られました。家庭や学校以外に自分の居場所を見つけられたら、社会は案外悪くない所と気づける。
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毒親は「毒になる親」という書籍が元です。親により成人後も精神疾患等で苦しんでいる人達が自身の手で救われようと調べている内に見つけた有名な著書です
その前はアダルトチルドレンという言葉があったけど、メディアの偏向により本来とは逆の意味で広がりました
元は深刻に悩んでる人が使ってた言葉
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親ガチャ失敗って生まれた環境ではなく、生んだ親の人間性だと思う。
環境が良くても、人間性の良くない親だと子供は辛い思いをする。
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親ガチャにハズレたと感じる方は、リアルにおける「親以外の大人との心の触れ合い」が乏しい。なぜなら、頭の中は親へのストレスでいっぱいだから。そんな感情の中、ネットを通じて「他人と自分を比較」し、自分に対するボヤけたイメージが「恵まれてない存在」として認識されたのかもしれませんね。シ…
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つまり、ガチャで出たその時点では価値の低い景品が、フリマとかで高値でやり取りされる可能性があるから諦めないでって事で…いんですかい?インザスカイ!
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親ガチャね
自分の状況があまり良くない事を
自分の努力不足を棚に上げて
他の何かの責任にしたい他責思考の人間?としか思えない
今立ってる場所はゴールではなく
通過点に過ぎないよ
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ハズレ側にばかり目が行ってるみたいですけど
親ガチャの本質はあたり側だと思いますよ
格差の拡大からの再生産がネット環境によって目に見えて明らかになってきているのが原因だと思います
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unroll
社会とはを考えさせられる
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知り合いの人が墓じまいをしたらしいが、その時お坊さんから言われたのが「家系図は今あなたがここにいる証ですよ」と言われたらしい。何も因果なく生まれてきたわけではない。仏教思想やそういう意識も現代では薄くなっているのではと思う。
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親以外の(多様な)大人達と触れて関わることの重要性。
人を見て倣う機会、人の振り見て我が振り直す機会。
場所的にも時間的にも、それらの機会を重要視していない社会や組織の編成構造。
家庭だけに留まらずあらゆる場所で、軽視されている気がします。
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確かに。私も全ての出会いが重要だと思っていて、その点で親も友達も先生も全てガチャ。その中で少しでも当たりがあればいいのだが、今は親のウエイトが大きくなってきてしまっているのかな。それでもひとつの出会いから道が開けることもありますね。
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親ガチャに失敗した子、子ガチャに失敗した親。どっちもどっち。
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この言葉は、親世代の視点の「生まれた環境がどうであれ、本人の生き方次第で人生は成功させられる」という強い思い込みと、子供視点の「それはまだ日本の未来に希望が見えていた時代の話であって、今の自分たちには頑張っても明るい未来は無い」という世界観の断絶から来るもので、
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「大人が消えた」に共感。大人=責任を持つ事だが、サラリーマン社会では、責任から逃げ生き残れば年功で偉くなれるという実態が長く続いた。で、何もしない責任取らない大人が残り偉くなった。それを見て子供は、何もしない=運で決まる=世の中はガチャ、と学んでいる気がする。
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保育士です。第三の大人は保育園の先生だったり学童の先生だったり、一応いると思います。ただ彼らの行動には規定があり、ボランティアのように自由にはできません。また辞めたらすぐ消えます。どうしても縦割りです。そういった「先生」の限界は、仕事をしていていつも感じます。
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チエは、おばあちゃん(テツのおかん)がしっかりした人やったし、学校の先生も良い人、花井先生やテツが殴って改心させた(?)おっちゃん達も面倒みてくれてたし、良くも悪くも大人を見て育ってますね。子供の頃大好きな漫画でした。
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他人が子どもに親切心で話しかけても事案とされる可能性がある。親切を装った犯罪者がいると過去の報道等で認識しているから、まともな大人は自己防衛のため隠れてしまう。
地域コミュニティの存在感が薄くなり顔見知りが減ったのも要因の一つかなと感じた。
顔見知りでも安心できない世の中ですが。
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本質をうまく捉えながらそれを「ガチャ」という言葉で表現したワードセンスが1番の要因ではないでしょうか。自分の障害がスマホゲーム等で親しみのある「ガチャ」という軽い存在で決まるのが皮肉的です、、
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なんかさ、SNSとかYouTubeとか家庭の事とか家の事とかをあげてるファミリーとか居るじゃない?それらは決して普通では無いのに、見てる側からしたら良いなと思う。←から自分の家の中を比べてしまう。なんて単純な所から来てそう。辛い思いをしてる子供はいっぱい居るだろうけれども。
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すみません、一点反論が
それ、都会限定の話ではないでしょうか
田舎ではいくらでも働く大人の姿を見ることができます
それでも田舎の方が親ガチャなんて言われてたりします
この手の話は昔からあったように思います
たまたま、今になって皆にイメージしやすい方の「ガチャ」って単語が生まれました
続
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親ガチャ考、いちいち納得しながら読みました。
大人が隠れている、この指摘は衝撃的でした。
僕らも隠れていてはダメで、その隠れ蓑から打って出ようと強く思います。本日、午後から会議があるのでその話をして、まちづくりの新しい地平を見つけようと思います。