②アセンションの先・・・ | Violet monkey 紫門のブログ

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十字架の国  1998 不思議の国、ZIPANG

①アセンションの先・・・ の続きになります

 

36年前のSF漫画の「ワンゼロ」ですが、

現在の状況と重ね合わせると

まさに予言の書とも思えるわけです

 

と言うか、今だからこそ「ワンゼロ」が理解できるのですね・・・

 

 

 

 

 

 

科学と仏教の謎 (自然学ミニエンサイクロペディア) 単行本 – 1987/6/1

秋山 さと子 (著)

 

 

 

 

マンダラ·シンセサイザーで、

すっかり菩薩の心境になったエミーの母親は、

批判精神を失い、いつもニコニコして、言葉をあまり話さなくなりますが、

アクシャラに出来た人口七百人のコミューンの人々にも、

エミーの母親と同じようなことが起こります。

 

アクシャラに集まった人びとは、高額所得のニューョークの若いエリートたちですが、全員が瞑想にふけって、あまり食事睡眠もとらなくなり、異様に柔和になります。

 

手作りの穀物と野菜、家畜の肉と乳製品、その毛で織った粗布の着衣で、みな聖人のような顔をして、子どもたちは天使のように、おだやかで人なつこくなります。

 

 

 

 

 

 

 

 

ここまでは大変すばらしいことですが、

この村へ来てから生まれた子どもたちは、言葉を話さないのです。

 

 

 

 

 

 

 

つまり、言葉を話す必要もないほど、全員が無言のコミュニケーションを達成し、安定して日々を過しているということもできましょう。

 

しかし、もちろん言葉を話さないということは、一般の人びとにとっては大問題で、

自閉的に自分の世界に閉じこもってしまった子どもたちのようです。

 

そして、マユラはヘリコプターで、アクシャラのマーシー(慈悲)村に飛び、神の降臨のように迎えられて、彼女は「闘争の時代」が終わって「真実の時代」が始まることを宣言します。

 

『ワン·ゼロ』の世界は、こうした善と悪、真実の闘争などの問題を提出しながら進行するわけですが、魔の妖精ルシャナは、姿を変えて、すベてのマンダラ·シンセサイザーをコントロールしているコンピュータ·マニアックの中に入りこみ、こうして、

自らの意志を持つコンピュータが出現するのです。

 

 

 

こうして、コンピュータ対瞑想、  文化の発展対素朴な生活における平和、  魔と神の一大対決が始まります。

 

ルシャナは、日本全土に生き残っている悪霊たちを招き寄せて善であるべき神と対決し、

幻想的大戦争になりますが、

その中で、ルシャナとマユラの一騎打ちとなり、最後には、二人とも倒れて、すべては終わるのです。

 

一九九九年、例のノストラダムスの大予言の年、

完全な避雷構造のビルに天から一瞬の光がさして、

アイツービルの最上階は、神と魔の決戦の結果として破壊されます。

 

その時に全東京が停電したということですが、その場にいあわせた人びとは、この物語に活躍する主人公の若者たちとともに、幸い誰も傷つきません。

 

彼らはその後二週間も眠りこけ起きた時には、急に身長がのびたりして、おとなになり

ます。

 

コンビュータ少年のアキラは、将来、アイツー社への入社を保証されて、勉強にはげむようになり、

こうしてこの神と魔の幻想的一大物語は、思春期の子どもたちがよく見る幻覚や

悪夢の一つであったとも考えられる結果になっています。

 

しかし、主人公の一人であるトキは、次第にマユラに似て来て、最後にはマユラの魂と合体したように思われます。

 

彼はマユラの故郷のインドの豪族の一家に招かれ、そこで幸福な日々を送っているとのことです。

 

そしてもし、マユラとトキが合体したとすれば、完全な人間、ユング心理学でいうシュズュギュイ、つまり《男女両性》を具有する完全なる自己そのものとなったわけで、インドでいうアートマンそのものの化身になったかもしれません。

 

『ワン·ゼロ』の最後は、彼が将来、世界震駭者になるかもしれないという言葉で終わっています。

 

世界震駭者というのは、つまり、「良きにつけ、悪しきにつけ、世界中を巻き込むような、とんでもない力を持つ人間のことさ。仏教でいう『転輪聖王』だね。アレキサンダー大王とか、ジンギス汗、近いところではヒトラーか」

 

神を背にした世界の統治者のイメージは、近代自我がもっとも狙ったものでもあります。

 

エリザペス女王から始まって、自らが神に近い意識を持ち、理念を持って世界を統治するものです。

 

しかし、ヒトラーだって、全ドイツ人の理想的なあり方を実現しようとした人ですからね。

 

全体とか、統合という概念は恐ろしい面を持っています。

 

この問題がそれほど単純ではなく、宗教と科学の接近は、一面すばらしいことですが、大きな危険をはらんでいるという事実が、『ワンゼロ』の世界には見事に描かれていると思います。

 

さて、ここで、すでに述べたような仏教の教義として人びとが今注目している華厳思想と

は、どんな背景と内容を持つものなのか、もう少し詳しく説明したいと思います。

 

華厳は、大乗仏教が必然的に生みだした到達点ですが、その背景には、インド以来の長い仏教の思想

の流れが含まれていて、華厳がわかれば、大乗仏教のすべてを把握できるといっても過言ではありません。それを次にみていきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

男性性と女性性とを共に備えることを示す「心理的両性具有」の研究は, 個人の性の多様性が可視化されてきた現代において, 個人の生き方の理解に重要な概念となりうる。

 

ユング心理学においては

(1)男性性と女性性が個人内で区別され,

 (2)社会的期待によって男性性もしくは女性性の抑圧が生じるが, 

(3)性別に拘らずに「自分らしい」特性を受け入れる

 

という3つの段階を含んだ形で心理的両性具有を理解することが重視されてきた。

 

一方実証研究では, 男性性・女性性に関する内的準拠枠の個人差が捨象され, 単に広汎に男性性・女性性を有することとして心理的両性具有を扱うことで, 仮説と異なる結果が示されたことで、研究自体が下火となった。男性性・女性性を対立的に捉えうるが, 男性性・女性性両方を持つことも可能である, というある種逆説を含みながら心理的両性具有を測定できる方法を確立させていくことが, 今後の心理的両性具有研究における課題であると考えられる。

 

 

 

 

 

 

「私の中身はおっさんよ」と開き直った紫門の別れた奥様は

完璧な心理的両性具有者となっていたわけです

 

勝てるわけがありませんね😀