その4、万世一系1300年の嘘と二つのヤマト(日本) | Violet monkey 紫門のブログ

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十字架の国  1998 不思議の国、ZIPANG

背乗り

 

 

背乗り【ハイノリ】とは、諜報員や犯罪組織の構成員が、

行方不明者などの戸籍を乗っ取って、その人になりすますこと――。 

 

 

 

 

 

 

乙巳の変

この物語はいかにして国家が乗っ取られるかの記録です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

645年、書紀に記された事を紫門が解釈し、並べます。

 

6月12日:「中大兄(百済の王子豊璋)」は宮中にて蘇我入鹿を計画的に殺しました。

「古人大兄」はそれを見て自分の宮へ戻り「韓人が鞍作臣を殺した」と言いました。

皇極天皇も「古人大兄」の母親ですから一緒のはずです。

「中大兄(豊璋)」は法興寺を城として兵を集めて準備しました。

「中大兄(豊璋)」は部下に命じて入鹿の遺骸を蘇我蝦夷に届けました。

蘇我蝦夷の元に兵が集まり始めましたが「中大兄(豊璋)」の策略で散らされました。

 

6月13日:「中大兄(豊璋)」は蘇我蝦夷の宮を燃やして、一族郎党皆殺しにしました。

船史恵尺は素早く焼かれそうになった国記を取って、「中大兄(豊璋)」に献上しました。

 

6月14日:「中大兄(豊璋)」は軽皇子を孝徳天皇にして、「中大兄(豊璋)」を皇太子としました。

 

 

 

 

ここのある人の謠歌(ワザウタ)を説明して言いました。 
「その歌に『遥遥(ハロハロ)に言(コソ)そ聞(キコ)ゆる、嶋の薮原』というのは、これは宮殿を嶋大臣=蘇我馬子)の家に接して建てて、中大兄は中臣鎌子連と密かに大義を図り、入鹿を殺そうと謀議した兆しです」

第二の謠歌(ワザウタ)を説明して言いました。 
「その歌の『彼方(オチカタ)の、浅野の雉(キギシ)、響(トヨモ)さず、我は寝しかど、人そ響(トヨモ)す』というのは、上宮の王たちの性格は穏やかで素直なので、罪が有る、なんてことは無く、入鹿のせいで殺害されました。報復はないと言っても、天が人を誅殺させる兆しです」

第三の謠歌(ワザウタ)を説明して言いました。 
「その歌に『小林(オバヤシ)に我を引き入れて、姧(セ)し人の、面も知らず、家も知らずも』というのは、入鹿臣が宮の中で佐伯連子麻呂(サエキノムラジコマロ)・稚犬養連網田(ワカイヌカイノムラジアミタ)のために誅殺された兆しです」

 

 

 

 

 

 

 

古人大兄皇子は「豊璋」を知っているのだから

入鹿暗殺を目の前で目撃して、大王蘇我一族抹殺を察知したはず。

・・・

「古人大兄」は修羅場から急ぎ自宅へ逃げ帰り

「韓人が鞍作臣を殺した。心が痛い」と

吉野方面へ逃亡した・・・

そして「豊璋」の追手に殺されてしまう。

 

後に「中大兄(豊璋)」によって

「皇位継承を固辞」

「出家して吉野へ」

「謀反により誅殺」

との作り話を流されてしまう。

 

 

 

殺人犯「豊璋」は殺した「古人大兄の弟」になりすまし、通称だった「中大兄(豊璋)」を名乗る。

その時にはそれを覆す証人(大王蘇我一族)は全員滅亡しているからである。

 

つまり背乗りの完成である。

 

「中大兄(豊璋)」は百済救済計画を実行するが、白村江の戦いで失敗する。

 

 

しかし、20数年後に「中大兄(豊璋)天智天皇」の前に、殺したはずの「古人大兄(天武天皇)」が現れる。

 

・・・我、蘇り・・・

 

蘇った「古人大兄」は「大王継承権を固辞し、出家して吉野へ行く」

・・・と、20数年前の話をそのまま再現した。

またはこの話を20数年前の日本書紀の記事に加筆したか?

 

知恵対知恵の対決である。

「中大兄(豊璋)」は恐怖したであろう・・・知っている者だけが感じる恐怖である。

書紀の改竄者はこの時の「古人大兄」を「大海人」と変えて、

過去に戻って「大海人」の出生を弟として書き加え、

いくつかの事跡を「大海人」の事跡と書き換えた。

年上である「大海人」を「「中大兄(豊璋)」の弟にしてしまった。

 

あとは歴史の通りに「大海人」が勝った。

「大海人(オオアマシ)」とは「大天人(オオアマシ)」であり、

「大愛瀰詩(オオアマシ)」=「大蝦夷(オオエミシ)」である。

蘇我蝦夷と推古(皇極天皇)の息子、「古人大兄皇子」である。

 

紫門が思うに、大王の役職名である

「アマノタリシヒコ」と名乗ったのだと思う。

後の藤原氏がそれでは困るので・・

大+アマノタリヒコ」と変えたのだと思う。

アマテラスが蘇っては困るのです😀

 

 

 

 

ここで注意が必要である・・・

一度ある背乗りは2度3度・・・4度5度あるはずである。

 

例えば中臣鎌足

鎌足は乙巳の変の2年前に突然登場する。

しかし鎌子という名で・・・

実はその90年前に中臣鎌子という人物は実在していた。

そして中臣氏は物部氏と共に崇仏排仏抗争で蘇我馬子に負けている。

つまり乙巳の変の鎌子もまた、死人の名を語った背乗りの可能性が高いのである。

 

そして明治維新、明治天皇を弑して田布施の大村寅之助の背乗り

そして現代・・・は置いといて・・・

 

 

 

日本書紀に戻りましょう・・・

583年、敏達天皇は「日羅」から百済人を信用するな!・・・とアドバイスを受けています。

「百済人は謀議して 『船300有ります。筑紫に請願しようと思う』 と言う。

もし、実際にそう請願してきたら、ウワベだけでも許し与えてください。

そうしたら百済は新たに国を作ろうと思えば、必ず、まず女人(メノコ)・小子(ワラワ)を船に乗せて来るでしょう。国家(ミカド)はこの時になったら、壱岐・対馬に多くの伏兵を置いて、到着を待って殺してください。

そのように返って欺かれたフリをして常に要害を、堅く城塞を築いてください。

日羅はその後、大阪の難波で百済人に暗殺されました。

 

 

50年後・・・

 

631年、百済王の義慈が王子の豊章を人質に献上。(6歳だった)

 

 

百済の義慈王は641年から660年まで在位した百済の王です。

ですから、当時、王でも無いのに人質を出したというのは・・・

遠大な計画があったと言うことでしょうか?

 

書記ではここだけ「豊」とあり、これ以降は「豊」です。

とにかく名前を変えまくるのは奴らの常套手段です。

 

 

 

 

 

 

642年、「翹岐(ゲウキ=百済の王子)」その母や妹の女性4人内佐平(役職名)の岐味(キミ)と、高名な人間が四十数人が島に放たれました

 

キミ/岐味=「翹岐」の参謀。

よく分からないほど悪賢いこの上もない人物

(「岐味」で検索したらこんなの出た)

 

デジャブ!

「日羅」の予言そのままです😀

この連中を殺すべきでしたが、入鹿は歓待してしまいます。

 

その母は「中大兄(豊璋)」の母である斉明天皇(老婆)となり

その妹は「中大兄(豊璋)」の妹である間人皇女となり孝徳天皇の皇后になります。

 

この四十数人も「中大兄(豊璋)」の私兵となり、背乗りしていくようです。

蘇我一族滅亡はこの兵士たちの働きと考えられます。

 

あと、中臣鎌足が翹岐だと前回書きましたが、

鎌足は中大兄よりも10歳以上年上でした。

するとこの時の「岐味」であれば

年齢も、悪の参謀としても申し分ないようです。

 

万世一系の嘘を暴いて終わりにするつもりが

ハマってしまっています😀

 

 

 

 

大臣の子の入鹿(イルカ)… 又の名を鞍作(クラツクリ)と言います。
自ら国の執政を行い、その勢いは父の蝦夷よりも勝っていました。それで盗賊は恐れて、道に落ちているものも取りませんでした。

 

入鹿の悪口になっていませんね😀

むしろどれほどの善政を敷いたか・・・

 

 

皇極天皇としての即位

舒明天皇の後、継嗣となる皇子が定まらなかったので、皇極天皇元年(642年)1月15日、皇極天皇として即位した。49歳であった。『日本書紀』によれば、天皇はの道に従って政を行なった。在位中は、蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、その子・入鹿が自ら国政を執った。

 

紫門の仮説として・・・舒明天皇が「馬子の弟の蘇我蝦夷」で

その蝦夷の皇后であった皇極天皇とは

「馬子の娘の馬屋古女王」で叔父と姪の結婚であり、

の道に従って政を行なった・・・推古天皇であり、

その子が古人大兄皇子・・・

つまり乙巳の変で古人が戻った自宅とは

「上宮」であり斑鳩寺(法隆寺の別称)だったとしたら・・・

山背大兄王

法隆寺炎上!

 

 

一方、馬子の晩年の子供で「善徳」という人物が

聖徳太子であり入鹿であり、

推古天皇の摂政として善政を敷いた・・・

その入鹿の遺骸が蘇我蝦夷の元へ届けられ

そこが「上宮」であり・・・

 

 

法隆寺のある斑鳩の地は、生駒山地の南端近くに位置し、大和川を通じて大和国(現・奈良県)と河内国(現・大阪府南部)とを結ぶ交通の要衝であった。付近には藤ノ木古墳を始めとする多くの古墳や古墳時代の遺跡が存在し、この地が古くから一つの文化圏を形成していたことをうかがわせる

 

『日本書紀』によれば、聖徳太子こと厩戸皇子(用明天皇の皇子)は推古9年(601年)、飛鳥からこの地に移ることを決意し、宮室(斑鳩宮)の建造に着手、推古天皇13年(605年)に斑鳩宮に移り住んだという。法隆寺の東院の所在地が斑鳩宮の故地である。この斑鳩宮に接して建立されたのが斑鳩寺、すなわち法隆寺であった。

 

『日本書紀』には天智天皇9年(670年)に法隆寺が全焼したという記事のある

 

「日本仏教の祖」としての聖徳太子の実像については、20世紀末頃から再検討がなされており、『書紀』などが伝える聖徳太子の事績はことごとく捏造であるとする主張もある。ただし、こうした聖徳太子非実在論に対しては根強い反論もある。また、聖徳太子非実在論説を唱える大山誠一も、厩戸皇子という皇族の存在と、その人物が斑鳩寺(創建法隆寺)を建立したことまでは否定していない

蘇我蝦夷が甘檮岡(ウマカシノオカ=奈良県高市郡明日香村の丘)

に建てた「上の宮門(ウエノミカド)」

 

 

聖徳太子が建てた斑鳩宮(上宮)が嘘だから

天智天皇9年(670年)に

法隆寺が全焼したことに・・・したんじゃないの?

 

 

 

 

 

 

 

643年、『百済国王の子、翹岐弟王子が調使と共に到着しました』(百済から豊璋の弟がやって来た)

 

644年、中臣鎌子連を神祗伯に拝しました。

軽皇子は深く中臣鎌子連を敬愛し重用し、特別扱いでした。「このように特別に恩恵を受け賜るというのは、かねてから望んだもの以上だ。(軽皇子が)天下の王になることを、誰が邪魔できるだろうか!」

軽皇子=孝徳天皇

 

 

 

中臣鎌子と中大兄皇子の蹴鞠での出会い

「大きなことを計画するには助けは有る方がいいでしょう。請い願います。蘇我倉山田麻呂(ソガノクラノヤマダノマロ)の長女を召し入れて妃として、婚姻之眤(ムコシュウトノムツビ=縁組)を成しましょう。そうして後に、陳述して説得して、共に事を計画しようと思います。」

 

 

 

 

 

645年、乙巳の変 リアルな殺害レポートです。

 

 

中大兄は地に伏して申し上げました。 
「鞍作(クラツクリ=蘇我入鹿)は天宗(キミタチ)を全て滅ぼして、

日位(ヒツギノクライ=天皇位)を傾けようとしているのです。」

 

人は得手して、自分のことを語ってしまうのです😀

私(「中大兄(豊璋)」)は天宗(キミタチ)を全て滅ぼして、

日位(ヒツギノクライ=天皇位)を傾けようとしているのです。」

 

 

 

 

・・・さあゲームの始まりです・・・

 

 

 

続きます