救世主の条件 ①
蟻の街のマリア
このブログのここからの旅は
人間の闇に切り込みます
できることなら
ここで引き返してください
グロテスクな世界に潜入しますので
覚悟してください
しかし、
探究者として同行する方は
必ず最後に光を見つけることを保証します
キリスト教ではなく
本当のイエスを見つける旅
ヨハネによる福音書 1
1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
2この言は初めに神と共にあった。
3すべてのものは、これによってできた。
できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
劇画、あしたのジョーに登場する重要な女性がいる。
白木葉子
白木 葉子
大富豪である白木財閥の令嬢。本作のヒロイン。オールバックの髪形で、いつも白っぽい服を身につけている美人。気丈でプライドが高く、他人にも自分と同等の品性を求めるところもある。
物語の初期、彼女がドヤ街で慈善事業を行っていた事に目をつけた丈と子供達が企てた寄付金詐欺の被害者となる、その後段平と子供達を伴って、丈の送られた特等少年院へ慰問に訪れたが、彼女達が催した劇の内容に憤った丈に公衆の面前で罵倒される(この一件がきっかけで、丈は初めて力石とリング上で闘うことになる)。この事件から丈を嫌悪していた。
この白木葉子の現実版とも言える女性がいたんです。
深窓の令嬢にしてクリスチャン、
蟻の街のマリア
彼女を知ってキリスト教に興味を持ったんです。
イエスとは何者?
何故にこれほど人を善に走らせる?
何故人は命を惜しまぬほどに突き動かされるのか?
北原怜子
カトリック信者。洗礼名はエリザベス。堅信名はマリア。
令嬢として生まれ育ったが、浅草の姉の家に住んでいた時に、
'50ゼノ神父と出会い、蟻の町での奉仕を始める。
以下は、聖母の騎士様のフェイスブックより引用です
https://www.facebook.com/seibonokishi/posts/1633990393361498/
第二次世界大戦(太平洋戦争)後、東京・浅草の隅田川の言問(こととい)橋のほとりに、廃品回収業を生業(なりわい)とした人びとの集まり「蟻の会」という労働生活協同体が誕生しました。
東京都台東区の隅田公園内に浮浪者(ホームレス)の人びとが、バタヤと呼ばれる廃品回収業を営み、ゴミの分別によって再資源化できるものを工場へと送るリサイクル事業でした。子供たちや老人を含むかなり多数の家のない人たちが、結束して人間らしい生活を目指していました。
蟻の会が経営する「仕切場」は、集めてきた鉄くずなどを分別するためのもので、北原怜子は、マスコミ報道によって名づけられた「蟻の街」で献身的な働きをしました。「蟻の街」とは蟻の会の人びとが「蟻はどこでも一生懸命働き共同体から力を得るから」と共同体の将来を期待して命名しました。
怜子は、東京都杉並区阿佐ヶ谷(馬橋)に、父 北原金司と母 媖の三女として生まれ、大学教授の息女らしく、習い事をたしなみつつ育てられました。1941(昭和16)年桜蔭高等女学校へ入学し、戦争を経て、自身の将来を考えた怜子は手に職をもつことを望み、昭和女子薬学専門学校(現・昭和薬科大学)へ進学します。
怜子がカトリックの洗礼を受けたのは20歳のときで(公教要理を終えた直後の1949年10月30日に受洗)、友人宅があった横浜のカトリック山ノ手教会の雰囲気に心惹かれたことと、妹肇子の通う光塩女子学院(ベリス・メルセス宣教修道女会運営のミッション・スクール)での聖書の勉強会がきっかけだったといいます。
受洗してから怜子はずっと「(エリザベトのように)貧しい人びと―社会的弱者―に仕えたいという抑えることのできない欲求を経験した」と語っています。
そのような怜子の人生を決定的に変えたのは、1950(昭和25)年11月の、ある托鉢修道士との出逢いでした。白い髯を生やして黒いカバンを持ち「ゼノ神父」と親しまれたポーランド生まれのゼノ・ゼブロフスキー修道士でした。蟻の街で救援活動をしていたゼノ修道士に、「蟻の街」での最初のクリスマス会の手伝いを頼まれ、怜子もその働きに次第に身を投じて行くことになりました。
紛失物があれば「バタヤ(屑拾い)の子」の所為にされ、汚いと軽蔑される蟻の街の子供たち。学校に行っていない子供たちを預かり勉強を教え、時には聖歌を歌い、おやつを与え、ドラム缶で入浴させ、『聖母の蟻』という新聞も発刊しました。また病人の看護や老人宅への訪問に多くの時間を割きました。
1951(昭和26)年7月、怜子が「我が子」と言っていた子供たちの夏休みの課題(海や山についての作文と課題研究)をするために、子供たちと共に自らも鉄くずを拾い集め、六千円を捻出します。これはバスと汽車の運賃でした。当時の平均的な一日の賃金が約二百四十円でしたが、子供たちと共に一日百円を目標にお金を稼ぎました。そして見事に8月11日の早朝、箱根・芦ノ湖、仙石原へ向かいます。
また浅草教会の千葉大樹師が、ミサの説教のなかで「赤い羽根共同募金について」話した折、ミサから帰る途中で「リアカーを引き、屑を集めて募金に役立てる」ことになりました。「夏の遠足の交通費の六千円がつくれたのだから、もし倍の一万二千円を病気や弱っている人に協力することができたら。きっと一ヶ月でできる」と。至難の技と周囲に思われた計画でしたが、困った事態が起こる度に、怜子と子供たちは聖堂に行きロザリオの祈りをささげるのでした。その甲斐あって無事に、安井誠一郎東京都知事に手渡すことができました。
子供たちが「怜子先生。怜子先生。」と慕うのを見て、周囲の大人たちは「クリスチャンなど偽善者だ。」と頑なな態度でしたが、献身的な怜子の姿に猜疑心に満ちた心が、次第に解き放たれていくのでした。
怜子の洗礼名は「(ハンガリーの)エリザベト」、堅信名は「マリア」を授けられました。「蟻の街のマリア」という見出しで当時から報道されるほどに、その働きは有名になって行きました。
しかし、脚光を浴びれば浴びるほど偽善・自己満足という偏見からくる心労で、怜子は結核を患います。床に伏す怜子は静養のために、空気のきれいな箱根と東京を行ったり来たりする生活を余儀なくされるなか、子供たちの世話を引き継ぐ後任者 慶子が見つかりました。
戻る場所も失った怜子でしたが、肺の回復がほど遠い状態では、修道会も修道女志願者として入会を認めることができませんでした。それほど体調が悪化していました。
怜子を慕う多くの人びとの懇願で、怜子は28歳で帰天する最後の瞬間まで、蟻の街で生活することになります。鉄くずや古新聞、空ビン等の置き場として建てられた倉庫を仕切って、怜子のために新たに三メートル四方の部屋が用意され、蟻の会の事務的な仕事をしつつ、深い祈りに没頭する生活を送りました。
怜子は病床にあっても蟻の街のために働き、ロザリオの祈りを続け、子供たちには声をかけ、多くの人びとを祈りで支えていました。
蟻の街に復帰した怜子は松居桃樓(とおる)と共に、七百万都市東京の七千人の浮浪者を救うための方法として、手近なリサイクル(紙、段ボール紙、瓶、缶、鉄屑など)の恩恵によって生活の安定を模索します。東京都民がゴミとして廃棄する二割をリサイクルとして活かすだけで、浮浪者たちは立派に自力更生ができたのです。何故なら金額に換算すると一ヶ年で八億円になるからでした。
不法占拠(戦争中は高射砲陣地。終戦後は恩賜財団同胞援護会が借り受けて建てた製材所跡を正式に同胞援護会が借り受けていた)と不衛生な環境、東京都の再開発の観点から「蟻の街」は、移転を余儀なくされました。
東京都が換え地として斡旋されたのは、東京湾の埋め立て地「深川枝川町地先第8号埋立地」の一部でした。それも五千坪を二千五百万円、即金という条件です。しかし怜子は「蟻の街が8号地に移ることが、もし天主様の御旨にかなうことなら、きっとなんとかなると信じます。」と自信有り気に言い、「弐千五百萬亦」と長さ50cm、幅10cmくらいの白紙に書き板壁に張るのでした。
怜子は生命をかけ祈り始めます。東京都の交渉で「蟻の街の都合や事情を考えた末、千五百万円を五ヶ年年賦という条件が一番妥当だと思う」という妥協案が提示され、大急ぎで怜子に知らされました。
安堵した怜子は間もなく昏睡状態となり、譫言で
「ああ、マリアさま」「マリアさま、蟻の街は?」
と尋ねていたといいます。
1958(昭和33)年1月23日、午前8時10分、蟻の街のマリアはこの世を去り、天に召されました。・・・享年28歳でした。
享年(きょうねん)とは人が「天から享(う)けた年数」
ヨハネによる福音書 1
4この言に命があった。
そしてこの命は人の光であった。
5光はやみの中に輝いている。そして、
やみはこれに勝たなかった。