文化史における主体者をめぐって――。


アイルランドといえば何だろう。酒類を飲んだ経験のない筆者でも、パブ文化が栄えていることぐらいは知っている。使い込まれた木のカウンター、その前に座る人の背中、グラスの中で揺れる琥珀色の煌めき。そういった映像を観たこともなければ現地を訪れたこともない筆者はジェイムズ・ジョイスの小説を読んだことで、そのような想像を抱くようになった。


あとは何だろう。ジョイスといえば、彼と同じようにアイルランドを背景に持ち、西欧的価値観を共有する文化圏に名を知られた作家たちがいたはずだ。『幸福な王子』のオスカー・ワイルド、『ゴドーを待ちながら』のサミュエル・ベケット、『土を掘る』のシェイマス・ヒーニー――。彼らはみなアイルランド出身だ。そして、この四者よりもアイルランドの魂にこだわりながら、どこか孤独な光を放つ詩人がいる。ウィリアム・バトラー・イェイツ。彼を忘れてはいけないだろう。といって、筆者もイェイツに関して博士のように語ることはできない。そこで、イェイツと、そしてアイルランドという記憶の地の学びとなるような書物を筆者は手に取った。


『煉獄のアイルランド 免疫の詩学/記憶と徴候の地点』――本書は、詩人のウィリアム・バトラー・イェイツやアイルランド、西洋史を研究した末に結実した著者独自の歴史像とその運動に生物学、医学上の概念である免疫が関わっていると述べる詩学論である。

イェイツの作品とともにイェイツに関する書物は何冊か読んだことがある。中でも筆者が愛着を抱いているのは渡辺久義氏による『イェイツ』だ。このイェイツ論は、イェイツをニーチェやゲーテ、ドストエフスキー、キルケゴール、釈迦、福音書に描かれた例の人の子などと比較しながら、主に後期の作品を集中的に論じているが、その文体や叙述は普遍的実存探究の情熱が溢れていて、かつて感動の読書体験を筆者に与えてくれたものだった。

渡辺氏が中期から後期にかけての普遍的な求道の魂である実存主義者としての面を強調するイェイツ観ならば、木原氏のイェイツとは文化史上の存在である。イェイツの実存主義的な面が否定されるわけではないものの、彼の実存を含めた文明や文化の歴史を語ろうとしている。また、自身が文化史上の実存であることを意識しながら様々な活動を行っていただろうイェイツ像を歴史の叙述の中で示している。 

そういった意味では、イェイツを導き手とする本書において、イェイツは媒介的な役割とも言える。アイルランドの記憶を辿るにあたっての目印のような存在である。本書はイェイツや『ハムレット』などを目印として、アイルランドの記憶を辿る。その目印が示す場所とは、具体的には、かつてアイルランドにキリスト教を伝えたとされる聖パトリックの名が冠された煉獄の穴である。その航路の結実が本書の呈示する詩学を意味する。そしてそれはより大きな歴史――聖パトリックの煉獄の穴を目印とみなす西洋史の謎と逆説とをめぐる壮大な旅路へと読者を向かわせる。

本書の主題である免疫の詩学とは研究の結実でありながら、対象へと迫るための方法論でもある。目印を辿り、歴史の謎を解くことは、謎を白日の下に明らかにして、例えば博物館に展示するような行為とは異なる。展示物を眺めるように読者は歴史を辿るのではない。読者にとって本書は読者が自らの身体で目印を辿るための伴航者として、ある冒険を促してくれるのである。


さて、歴史の目印を辿る、と筆者は書いているが、実は本書において「歴史」という語はあまり登場しない。それよりも「記憶」が頻出する。この語は本書の題の一部であるが、それ自体が本書の説く認識論に紐付けられた意味を成しているため重要だと考えている。冒険へと向かう前に、この認識論を整理したい。

まず、この稿を読んでくださっている方は、「記憶」という語から、どういう印象を持つだろうか。先に、筆者は本書が歴史の謎を博物館に展示する行為を目的としているわけではないと書いた。博物館の例えを続けよう。例えば、博物館で歴史や記憶が展示されるとしたら、観覧者はその情報をどのように受容するだろうか。

「歴史」とは、ガラスケースの中に整然と並べられた展示物として観覧者の前に持ち運ばれる。観覧者はそれに手を触れることなく、説明文を読み、距離を保ったまま理解することができる。一方で「記憶」とは、展示される以前の出来事そのものであり、そこに立ち会った身体の熱や匂い、痛み、息遣い、瞳の瞬きを含んだ経験である。触れれば崩れ、近づけば巻き込まれるような、距離を拒む現場だ。

このように考えていくと、「歴史」と「記憶」の対照性が見えてこないだろうか。どちらも過去の事実を指示するものの、「歴史」という語が、人間の客観的な認識能力に基づいた、実証された事実としての意味を有するのに対して、「記憶」とは、歴史事実と歴史当事者の知覚とが分けられない概念として立ち上がってくる。「記憶」という語に含まれた、主体と客体とを分けられない認識論が本書の冒険に先立って備えなければならない羅針盤である。では、主体と客体とを分けない認識とは何だろうか。これをもう少し掘り下げてみる。

本書は、生物学上の概念である免疫に着目する。“免疫は自己と非自己を識別し、非自己を異物として排除することで自己性を保つ”働きがあるのだが、著者はこの免疫学と自身が携わる文化学とは平行関係にあると語る。例えば、文化人類学から派生する用語である「同化」、「異化」、「排除」などは、免疫の働きを表す意味と重なり合うという。この理解を推し進めて、著者は文化の営みを免疫の働きの一環として研究するためにはどうしたらよいかを提言しつつ自ら実践しようとする。

“免疫システムの中核的な機能を果すT細胞は、古代ギリシア人が「魂の座」と呼んだ胸部胸腺のなかで誕生し、そこで育成される”ということは、つまり免疫は眼や脳にはない。それは言い換えれば、眼や脳には自己と非自己を識別する機能がないことを意味する。このことは人が思考や視覚によって得られる自己認識とは別に、例えば視力の弱い人や病室で意識がないまま心臓の鼓動は続ける人などにも適用される自己認識があるということなのだ。

免疫という概念を知識として理解するならば、従来の主観/客観という二項対立に基づいた認識論は、たとえ、そのような立場を続けられたとしても、存在論的には成り立たないはずだ。その上で免疫を知る立場とはどのようなものだろうと問う。免疫によって主観/客観の二項対立が崩れたことを自覚する人間の認識の作法として、本書は“おもざし”を提唱する。

“おもざし”とは何だろうか。眼や脳を主体とする認識においては、自己認識が盲点となる。客観的な対象認識は、対象から主体を分離するゆえに、観ている・認識している自己を観ること・認識することができない。著者は認識する主体を眼や脳として固定化する、いわば“まなざし”とは対照的な概念として“おもざし”を考えている。ここで疑問がある。“おもざし”の作法の場合、眼や脳の働きはどうなるのだろう。眼や脳の認識は全て的外れであるということなのだろうか。そうではない。注意すべきは、免疫自身も客観的な対象認識を行うわけではないし、認識されるわけではない点だ。免疫は免疫の働きによって生じた徴候=傷=目印からかろうじて迫れる存在である。客観的な対象認識の主体が、眼や脳の代わりとして免疫にあると言っているのではなく、客観的な対象認識の主体という考え方そのものをずらしている。眼や脳の働きは全て身体の出来事の一部となるのである。“おもざし”という発想は、主観/客観、主体/客体、という二項対立を壊すためのものである。歴史という“まなざし”ではなく、“おもざし”とは、記憶という、それ自体“おもざし”である対象に迫るための方法を意味している。

著者は、免疫の働きが歴史の隠れた周縁で起こる出来事であると言う。周縁での出来事が歴史の隠れたアイデンティティであると語る。本書が難解であるとしたら、それは免疫の働きに“まなざし”で迫ることができないためであり、したがって、免疫の働きによる歴史(記憶)も“まなざし”では迫ることができないためだと著者に言われるだろう。本書が対象としているのは過去の事実というよりは、それを指揮し、未来へと続いていく力の運動である。本書は客観的な認識だけに留まることを拒む対象を主題としているという意味でもある。ならば、そのような歴史(記憶)は一体どのように著され、読まれうるのだろうか。それを可能とするのが“おもざし”である。記憶という歴史事実と歴史当事者の知覚とを分けられない身体的な対象には、それに迫る側も身体的でなければならない。“おもざし”と向き合うためには、こちらも“おもざし”でなければならない。これは、作法である。本書は読者の側にも“おもざし”を、著者と同等かそれ以上の作法として求めているのだと考えられる。

筆者は本書の主題である免疫の詩学が著者による研究の結実でありながら方法論でもあると書いた。“おもざし”という方法は結実として免疫の詩学の運動にすでに内在しているというのが本書の前提である。本書の成り立ちから内容までの全てが、無限に周縁から中心を希求する一連の運動を構成している。この主観/客観では捉えられない歴史の運動が免疫の詩学を意味する。それは科学的な方法に基づいた歴史学のように実証され、確定された事実の物語ではなく、未来へと、未知へと開かれた力の運動である。だからこそ本書は歴史学ではなく詩学と題されている(イェイツの詩法と密接に関連しているためでもある)。端的に言えば、本書は歴史論や文化史論の枠組みを超えて、認識論を基盤とした、一個の特異で独立した体系思想である。本書は身体性という周縁が周縁であると基礎づけられながらも、それゆえに永久に歴史の中心を構成し続ける力を語っているのだと筆者は捉えている。

ここまで冒険のための準備をしている。本書が研究の結実でありながら方法論でもあることは何度か書いたが、著者は羅針盤や海図といった目的地に辿り着くための方法を、航海の結実として既に所有している立場である。著者はあらかじめ結実を所有した上で結実のための方法論を展開している。西も東も分からず自己認識もたしかでない読者は著者によって用意された羅針盤と海図とを持って、著者に伴われながら航海に出ることになる。

出発にあたって海図を確認しよう。読者が著者とともに目指す場所とはどこか。それは聖パトリックの煉獄の穴である。どのように著者は聖パトリックの煉獄の穴に辿り着いたのか。著者はアイルランド史、西洋史、『ハムレット』、イェイツ作品などに顕れた目印(徴候)から伸びる線が結ぶ先として、“アイルランド極北西部にあたるドニゴール州、「洞窟(dercc)の湖」、あるいは「赤い湖」というゲール語の意味をもつ「ダーグ湖」に浮かぶ小島、「ステーション・アイランド」のなか”に発見したのである。

徴候から伸びる線が結ばれる場所にすでに☓印がついているならば、読者としては必ずしも書物の構成に従う必要はないのではないだろうか。それよりも、著者が“おもざし”た記憶を、どうしたら整理しつつ自らも“おもざす”ことができるかを考えた方がよい。免疫の詩学は一直線ではなく、渦巻き状、螺旋状、円錐状、円環状なので、始まりと終わりという二項対立も崩されている。どこからでも免疫の詩学の運動には参入できるだろう。


本書において、アイルランドは免疫の詩学そのものを生きる国とされている。これにはどういった必然性があるのだろうか。なぜ他の国ではないのだろうか。アイルランドは植民地支配、宗教的分断、言語の断絶といった複数の「異物の侵入」を経験している国だ。ここで起きているのは単なる衝突ではなく、自分の起源そのものが外部によって構成されてしまう事態である。アイルランドの場合、「純粋なアイルランド性」を回復しようとする運動(民族主義)自体がすでに外部(イングランド支配)との関係の中で生まれている。つまり、本質を取り戻そうとする運動そのものが免疫反応の一部と言える。だが、イェイツはそうした外界の集団的な政治闘争を憎んだ。そこに民族への真の奉仕はなく、アイルランドの真のアイデンティティもない。本書に則せば、異民族との戦死は供犠ではなく、真の免疫でもない。アイルランドの身体のアイデンティティ=免疫は別にある。孤独な闘争を歌いあげる彼の詩に隠れて顕れた徴候からアイルランドの免疫を辿るのが本書の進路の一端である。


ところで著者は、免疫を自民族の自民族による自民族のための供犠と等しい働きとみなし、その詩学を西方教会の正統派における煉獄の概念と接続したものと捉えている。どうして免疫が供犠や煉獄などと関わってくるのだろうか。煉獄とは正統派の教義において、死後に人が天国へと向かう際に浄められる場所である。浄められることは地上的、俗的、肉体的な罪である。正統教義を表現しえていると教会から評されるダンテ・アリギエーリの『神聖喜劇』では、地下でも天上でもない場所であり、清算されるべき罪が残されているものの、その先には天上へと続くはずだという希望がある。それは苦も楽もある地上の価値観や信仰生活の陰影と似ているが、本書においては、此岸と彼岸、天国と地獄、生と死といった二元論を結ぶ概念として象徴的な意味を持つ。それは主観と客観の二項ではない、免疫がアイデンティティである身体性と共鳴した概念なのだ。“おもざし”によって迫ることができる免疫の詩学とは、この煉獄と性質を同じくする。考慮すべきは、これが罪の浄化を求める正統なる煉獄とは異なる煉獄の捉え方である点だ。アイルランドにキリスト教を伝えたとされる修道士パトリックの伝説が、この点に示唆を与える。本書で紹介されている伝説によると、キリスト教を伝えるためにアイルランドの各地方を巡っていた修道士パトリックは各々に修道院を建てていった。その途上、ダーグ湖の小島には怪物が棲んでいた。それは悪霊で、毎年、たくさんの生贄を求めて民衆を困らせていた。彼はその悪霊を退治するのではなく、一旦、自身に乗り移させて対峙したという。ダーグ湖の小島に棲む悪霊をキリスト教徒である彼が打倒したのではなく、自らの身に受け入れたことは本書において両義性を切り結ぶ供犠を象徴している。彼は聖人か、妖術師か。本書での煉獄とは、それ自体、免疫=供犠によって異化された(意味をずらされた)煉獄である。この煉獄は正統とは異なり、天国への志向性とともに、地獄へのそれもある。この煉獄は二項対立を切り結ぶ空間であり、その刑罰と浄化の炎であり、その炎の責め苦を受ける身体の状態である。この煉獄が免疫の詩学と性質を同じくするということは、したがって、“おもざし”とは、両義性を引き受ける煉獄巡礼であり、それは修練を意味しているということなのである。

ただし本書は宗教文化の習合現象として正統の煉獄が異化されたという理解は取らない。むしろ、通時的な歴史観では異化によって生じたと解釈される、この煉獄こそが正統なのだと捉えているようであり、その祖型をオイディプス王とスフィンクスの関係やタナハに登場する人物などに求める。本書は“おもざし”によって辿ることができる煉獄を正統教理の成立以前に遡って、起源と影響史を探究している。

それから、煉獄にもアイルランドにも結びつく、民族の記憶の徴候――身体に生きるフォークロアである、シェイクスピアの『ハムレット』に、“おもざし”の方法によって接近する。敬虔な正統信仰の詩人であったシェイクスピアが宗教改革勢力の影響の中でいくつもの暗号を散りばめた『ハムレット』――正統派/抗議派の対立において揺らぐのは王権神授説であるが、同時にそれ以上に大きなものがある。それは、煉獄である。抗議派からは存在を否定される亡霊はいるのか、それともまやかしなのか。葛藤するハムレットの姿は、供犠という文化における免疫の相を帯びている。そして著者は煉獄の亡霊と対話するハムレットの面影をイェイツの『人とこだま』に見出している。たしかにシェイクスピアと同じようにイェイツも彼の父祖を辿れば正統派教会(アイルランド)と抗議派教会(イングランド)の狭間にいる。どちらかを裏切れば、どちらも裏切ることになる。イェイツの遣り場のない心境が『人とこだま』には表されていて、それはハムレットと重なるものがある。『人とこだま』で、老境に至ったイェイツは自らの苦悩と罪とを告白し、自己を審問にかける。これが先ほどの煉󠄁獄の定義を踏まえて、“自己煉獄化”と本書では呼ばれている。

イェイツの作品は、天国/地獄、霊/肉、生/死、といった二元論的な世界観を有するロマン派からの影響が大きい。本書によると、イェイツ自身は“自己の詩学を「仮面」という名で呼び、それを「自我」に対する「反対自己」の創造による、自己と反対自己との衝突の対話=ドラマツルギー/詩学”だと語っているという。しかし、この「自我」、「反対自己」とは何かということに関してはイェイツ自身から具体的に定義されているわけではない。本書にて著者はイェイツの反対自己としての仮面をケルブとみなす。ケルブとは、人間の堕罪後、再びエデンの園(天国)に戻ってくることがないように、神によって門番としての役割を与えられた智天使である(『創世記』三章二四節)。そもそもはそのような成り立ちであり、煉獄にて罪を浄めるために対峙しなければならない存在だろうが、本書では煉獄がそうであるようにケルブの概念も異なっている。イェイツの仮面がこのケルブである根拠、その意味について著者は様々な詩作品から読み取っていく。

結論を述べると、ケルブとは「自己呵責」であると定義される。自我と反対自己のドラマとは、結局のところ、その人の身体を前提としている。二元論を切り結ぶことで、その場は次第に炎のように燃え上がり、自我/反対自己の二項対立をも巻き込んで自らの身体を責め苛む。その超常的なまでの呵責が煉獄に座すケルブなのだ。ケルブとは『人とこだま』においてイェイツの自己煉獄化を構成して、他者であり自己であるような存在となっている。詩人は炎そのものでありながら、その中で身悶えている存在なのだ。

そのイェイツと意義が共有される聖パトリックの供犠=煉獄=アイルランドの免疫が西洋史において、どうして重大なのか。本書はオリエント/オクシデントの対称性を分析しつつ、その優位/劣位の関係の逆説を語っている。ちなみに本書でのオリエント/オクシデントとは、主にキリスト教における東方教会と西方教会の問題であり、それぞれの聖三位一体論の構造について文化史や精神史、心理学などを援用した議論が展開されている。このオリエント/オクシデントの関係にも連なる聖パトリックの供犠の意味を語る記述を追っていた筆者はキリスト教の大いなる逆説の一つを連想した。それは「へりくだる者を神は愛する」というものだ。劣位にある者がへりくだることによって地位が向上するものの、ある段階で、それは傲慢に転化し没落する。神はまた別のへりくだる者を愛する。そのような歴史だ。そして、その最たる存在が、ゴルゴダの丘という周縁にて十字架刑を受け入れる形で、へりくだった例の人の子であるように思えた。福音書によれば、刑死後、かの人の子は神から復活の命に与ったのだった。この復活は新しくも懐かしい世界の到来を約束する出来事だった。それは死による終末ではない終末が世界にあることを示唆していた。だが本書の歴史像に終末論は考えられない。天国とともに地獄を志向する免疫の詩学において、東方と西方は復活と死を繰り返すのだろう。その中で、アイルランドはオクシデント(西方)に属しているが、本書において、オクシデントの周縁とされ、その周縁の中の周縁である聖パトリックの供犠はオクシデントの供犠と言える。それはオクシデントに対してへりくだった立場であり、その意味でオリエント/オクシデントの二項を切り結ぶ意義もある。――このように本書は語ろうとしているように感じられる。つまり例の人の子が異化された姿として聖パトリックは捉えられているのではないだろうか。ひたすらな自己呵責としての十字架の歴史を筆者は思った。

読者とともに煉獄への旅を一通り終えた著者は最後に、免疫の詩学へと通じる未知の航路を発見したかのように本書を、アイルランド論でも聖パトリック論でもなく、日本との関連、特に「鎌倉」を主題とする試論によって締めくくる。それは本書の文化史上の意味を日本語読者に投げかけていることになるだろう。本書の主題である免疫の詩学とはアイルランド論であり、西洋史の問題だった。では、東洋、日本はどうだろうかと問いかけている。免疫の詩学とは、異なる文化や文明の衝突によって身体に異文化が菌のように入り込みながら、傷を徴候として残しつつ、かけがえのない自分自身の一部となっていく過程を説いているとみなせる。その結果として別の地域や文化圏での起源が他の文化圏で本質化する可能性があることをも教えてくれている。このことを踏まえて、考えるべきなのだろう。


著者は文学研究においては珍しい実地調査の知見を取り入れている。「西洋史における供犠=免疫としてのアイルランド」や「仮面の詩法に基づいたイェイツ作品の“おもざし”」を論じるにあたって、合わせ鏡として必然の“おもざし”の作法である。と同時にそれは、書物を読み著すという行為を客観的な読解行為としてだけではなく、歴史の中で生きる身体的な経験とする、非合理でありながら調和ある、生き、読み、著すという人格的な知性を尊重する人文学探究の姿勢そのものなのである。


だから、この書物を読んで、その内容の妥当性を肯定であれ否定であれ客観的に下すことは安易にはできないと言わざるをえない。書評者として以前に筆者には向き合い方が難しい。そういった行為をする読者は、本書が求めるところの“未来の読者”でもないだろう。それは、本書からしてみれば、“まなざし”の文法に基づいた受容にすぎないのである。


重要な事は、歴史や記憶を客観的に認識することよりも、身体として生きることである。身体の免疫反応が民族の記憶の徴を遺す。その徴を眼で観て、頭でのみ受容することは、それが意味することを、また自分自身を忘却してしまう。“おもざす”からこそ身体にとっての自己である免疫が詩学であり、歴史舞台におけるベールや仮面によって徴として顕れるドラマツルギーにも結びつき、後世へと受け継がれる記憶に参入できる。それは“まなざし”では辿れない。著者は自ら“おもざし”の作法によってアイルランドの免疫反応を示す徴候を辿った。著者は自ら著す歴史を生きている。本書もまた煉獄へと至るための一つの記憶の徴である。それを読み解き、応答するということは、本質的には読者自身が“おもざし”の文法を生きることであり、頭での客観的な理解としての感想や書評の言葉に安住することではない。


アイルランドに隠された聖パトリックの煉獄の穴という記憶と徴候の地点とは、それを生きることでしか伝えることはできず、読むことも理解することも同様である。この書物を真実に読む者は、一人の煉獄巡礼の徒となり、ケルブとの対峙に耐えなければならないだろう。