古代ギリシアの詩人ホメロスによる戦争叙事詩『イリアス』の読書体験と感想とを自由な散文詩の形などで表していく。


【ひび割れた世界】


アキレウスとヘクトルとが闘うとき、
ホメロスの言葉には血が滲む。
アキレウスとヘクトルとホメロスと
この世界の血だ。

無垢な太陽の下で
それはいつまでも鮮やかで
傷を剥き出しのままにしている。
一つの世界を分断する傷だ。

ヘクトルの亡骸がアキレウスに引きずられるとき、
痛ましいヘクトルの無念は見なくても感じる。
そして、アキレウスの慟哭を感じる。聴くのではなく感じる。
血の滲む語りが分断された世界を繋いでいる。

この争いは必然だったのだろうかと
頁から視線を外した私は
自分には見えない神々を仰ごうとして
宙空に顔を向ける。


【覚醒したアキレウスが鎧を装着する場面】

物語の流れとともに描写の意味が自然と心に馴染む。
詩行を理解するより先に感応する。
読者とともに叙事しているような迷いのない語り。



【軍事英雄】

軍事英雄がなぜ英雄であるのかを語る叙事詩。
そのように私には見えた。

覚めた目で見れば、
私は人を殺める者を英雄と認められない、
それがたとえ自分以外の誰かを守るためであっても──。

信仰の英雄が多く描かれている聖書が
王、奴隷、族長、無名の市民などを取り上げているのに対し、
幅広い立場の活躍が『イリアス』には見られない。

ホメロスが古代ギリシアの全てではない。
ホメロスの描かなかったギリシアの英雄も知りたい。



【ホメロスを識る者】

ホメロスは神々の恩寵の働きを識る。
英雄たちの働きを識る。
彼はその権能を詩の女神に願い求める。

詩人は祈願自体も歌に込める。
ホメロスは作者を識る。
では、そのホメロスを識る作者とは?

【『イリアス』の中では】

『イリアス』の中では、
自分の存在根拠に悩む者、
自らが属する社会を変革しようとする者、
神々を信じようとしない者、
未知の他者に思いを馳せる者、
自分の居場所がないと放浪を続ける者、
無限の図書に囲まれる者、
そのような人は見られなかった。

「主への従順」という点では新約聖書の教えを
『イリアス』の英雄たちも生きているのかもしれない。
でも、そこには救済も救済を必要とする罪の意識も見られなかった。

喜び、悲しみ、怒り、
また、立ち止まり悩むことがあったとしても、
思惟の泥沼に溺れることはない。
一人の登場人物の観念が
世界を覆ったり、支配したりすることはない。
全ては運命の中にあるのだ、神々も人も──。


【部分、断片】

戦争のほんの一場面に多様な人間が描き出される。
割れた鏡にそれぞれ異なる像が映っている画を連想する。



【アキレウスの怒り】

友人パトロクロスの死はアキレウスが戦場に出ていれば防げた。
友人を殺めたヘクトルにアキレウスは自分自身にも向けるべき怒りを
ヘクトルのみにぶつけようとした。
友人の死に悲しみ、怒りに狂うほどなのに、
アガメムノンとの対立によって、
味方軍の敗北を祈っていたアキレウス。


【世界と人類とへの祝福】

ホメロスの世界は明朗で、
その戦争は暗くない。

何を肯定し、何を否定する、
世界と人類とへの祝福のために──。



【連鎖する運命】

均衡への志向や中立的な知性が
神々に託されることで成立する時代。
しかし、神々の不完全をも
詩人に内包させることで神々を知らない時代にも生きる神々。
多元的な世界を超越的に一元化している。
何者も世界を支配をしないという現代性とその前提。



【『イリアス』と現実】

ホメロスの語りには民衆たちは現れない。
民衆たちはホメロスの奏でるハープの
音色を聴きながら、戦争の必然を思う。

時代と国とを越えた所で、
世界中の民衆を相手に
ホメロスは朗唱する。

民衆は人類の歴史を思う。
避けられなかった戦争──
それはきっと今も続いている。

そう聴衆の民がみな思う。
でも誰もその戦争を自分の目で見たことがないし、
そもそも見ることはできないのだ。