リレーティング

リレーティング

愛についてのOSHOの講話をセラピストVIJAY(辻本ひさし)が紹介し
ます。またエッセンシャルライフコンサルティングや瞑想・セラピーからの人間関係に役立つ知恵も紹介。



リレーティング・コンサルティング(120分)
(ハート瞑想と共に、OSHOのビジョンに基づいた
以下のプロセスをガイドすることで、
関係性の中でのブロックを解消していきます。
電話/スカイプ/対面)

1.あなたの傷みとパートナーの傷みを認め、受け容れる。
2.傷みで満ちた側面も、美しい側面も両方を思い出す。
3.不平、不満、文句、苦情、恨みを手放す。
4.目覚める機会をもてたことに感謝する。それに前進していく。


Amebaでブログを始めよう!

二つの言葉が理解されねばならない。
一つは孤独という言葉、もう一つは『独りあること』だ。
孤独というのは、ネガティブな状態であり、『独りあること』はきわめてポジティブな状態だ。辞書によれば、それらは同じ意味だが、生においては、存在においては同じではない。

 

あなたは、誰か人が自分の側にいなくて、寂しくて孤独を感じる。あなたは自分一人でいるときに孤独を感じる。あなたは自分一人でいることに飽き飽きして孤独を感じる。

 

そして、あなたが自分一人でいて楽しいとき、『独りあること』を感じる。アサンガとは、『独りあること』、一人であることを意味する。

 

一人在るがいい。ヒマラヤの頂のように。絶対的に一人であれば、他者はいらない。


それは、あなたが人を愛さないということではない。実際は他者を必要としない人間だけが、人を愛することが出来る。必要が無くなったとき、愛が現れる。

 

もしあなたが、自分の側にいてくれる人間を必要とするなら、あなたはその人を利用しているのだ。その時、あなたの愛の一切は、相手を自分のいいように利用するというたぐいのものであり、深い搾取のたぐいだ。


というのも、あなたは相手を自分の目的の手段として利用している。あなたは、自分一人でいられない。あなたの孤独を満たしてくれる誰かを必要としている。あなたは愛について語る。が、それは本当は愛ではない。あなたは相手を利用しているのだ。

 

だが、愛は、決して自分のために相手を利用したりすることはできない。
愛にとっては、相手がその最終的なものであり、相手を手段に貶めることなど決してできない。相手が最終的なものであり、手段ではないということ・・それがこの世に存在する最高の徳なのだ。

 

絶対的に一人である者、一人でいられる者のみが愛することが出来る・・


というのも、その人にとっては、相手は必要ないからだ。

 

その反対に、その人からは愛があふれ出している。


愛は関係性ではない。愛は実存の一つの状態になる。

 

あなたは部屋に一人座っているかも知れない。が、愛はどんどんあふれ出している。
そこには誰も愛を分かち合う人がいないかもしれない。が、愛はあふれ続ける。


それは、ちょうど誰も通らない道に咲いている花のようだ。それでも花は空気中に、
風にその香りを放ち続ける。あるいは、夜星が輝いている・・誰も見ていなくても、
星は輝き続ける。というように。

 

あなたが誰かといようと、一人でいようと違いはない。あなたは愛を放ち続ける。
愛は実存の一つの状態なのだ。

- Osho

ある人と恋に落ちるとき、あなたは実際にその人と恋に落ちるのではなく、自分の空想の人と恋に落ちる というのはよく知られた事実だ

ふたりが一緒にいないとき、バルコニーから恋人を眺めるとき、あるいは、海岸でほんのしばらく会うとき、映画館のなかで互いに手を取り合うとき、 あなたは感じはじめる
「私たちは、お互いのために生まれてきている」

だが、誰ひとり相手のために生まれてはいない
あなたは相手に次から次へと自分の幻想を投影しつづける

― 無意識に一 そして相手のまわりに一種のオーラをつくる。相手もあなたのまわりに一種のオーラをつくる

すべては美しく見える。なぜなら、あなたがそれを美しくしているからだ

現実を避けて、夢を見ているからだ。
そしてふたりはできるだけ相手の空想を妨げないように努める

だから、女性は男性が望むように振る舞い 、男性は女性が望むように振る舞っている

だが、そ れは長くて数分間、 あるいは数時間続けばいい方だ。

ひとたび結婚して、一日二十四時間ともに暮らさなければならなくなった、自分ではない、何かの振りを続けることは、非常な重荷になる

相手の男性または女性の空想を満たすだけのために、どれだけ演技を続けることができる ?

遅かれ早かれ、それは重荷になり、そして復讐が始まる

あなたは相手の男性が自分のまわりにつくった空想を、すべて壊しはじめる
そのなかに開じ込められたくないからだ

あなたは自由に、ただ自分自身になりたい。そして相手の男性も状況は同じだ

彼は自由に、ただ自分自身になりたい
そして、それがすべての恋人たちの間―ー
すべての人間関係の間で続いている闘争だ

「ゴールド•ナゲッツ」http://ameblo.jp/oejbooks/entry-12112580493.html
自らの内側に愛の源泉を見いだした人々は
もはや愛されることを必要としない

だが、彼らはまさに愛される
彼らが人々を愛する理由は簡単だ
ただあり余る愛を持っているからだ

何の見返りも期待せずに
まさに雨雲が雨を降らせたいと望むように
まさに一輪の花がかぐわしい香りを放ちたいと望むように一ー

愛の報酬は愛を得ることにあるのではなく
愛すること自体にある

愛するだけで報われている人は大勢の人に愛される
それは生の神秘だ

なぜなら、その人に接することによって
人々は少しずつ自分の内側に愛の源泉を見つけはじめるからだ

愛を降り注ぎながら
しかも、その愛がどのような必要からも生じていない人一ー
彼らは今、少なくともひとりは、そのような人を知っている

愛を分かち、愛を降り注げば
愛はさらに育ってゆく

「ゴールド•ナゲッツ」 by OSHO
質問 私は自分のハートと全存在がなんとも言えない感じでいっぱいになることがよくあります。それは深い愛の中でそこにあります――でも、似たような感じは、恐怖、苦悩、痛み、絶望、そして欲求不満でもわいてきます。

 


OHSO

たしかに、まったく異なった感情でも、ひじょうに似たなにかがある——圧倒的だということだ。それは愛かもしれない、憎しみかもしれない、怒りかもしれな い——なんでもあり得る。もしそれがあまりにも度を越したら、なにかに圧倒されているという感覚になる。痛みや苦しみですら、同じ体験を生み出すことがで きる。だが、圧倒的だということ自体に価値はない。それはただ、あなたは感情的な生きものだということを意味しているだけだ。

これは主に、 感情の性質を示すものだ。怒りだと、それはすべて怒りだ。そして愛だと、すべて愛だ。ほとんどその感情に酔いしれてしまう、見えなくなる。そして、それか ら生じる行動はどのようなものであれ、間違いだ。たとえそれが圧倒的な愛であってすら、それから生じる行動は正しくはならない。

 

突きつめれば、なんらかの感情で圧倒されているときはいつも、あなたはすべての理性を失う、すべての感受性を失う、その中で自分のハートを失う。

 

それはほとんど、あなたがその中で迷っている暗い雲のようになる。そうなったら、あなたがやることはすべて間違いになる。

 

愛はあなたの感情の一部であってはならない。普通、それが人びとが考え、体験することだ。だが、圧倒的なものはなんであれ、ひじょうに不安定だ。それは風のようにやって来て、過ぎていく。あなたをむなしくさせ、打ちひしぎ、悲しみと嘆きのさなかに残したまま。

 

人間の全存在——そのマインド、そのハート、そしてその存在——を知っている者たちによれば、愛は感情ではなく、あなたの存在の表現でなければならない。

 感情はひじょうにもろい、とても変化する。ある瞬間にはそれがすべてだと思える。別の瞬間には、あなたはただむなしい。

 

だから、まずやることは、この圧倒的な感情の群れから愛を取り出すことだ。愛は圧倒的ではない。

逆に、愛は途方もない洞察、明晰さ、感受性、自覚だ。

 だか、その手の愛はめったに存在しない。というのも、自分の存在に到達する人たちはほとんどいないからだ。

 

自分の車を愛する人たちはいる……。その愛はマインドのものだ。次に、あなたは自分の妻、自分の夫や子どもたちを愛する——その愛はハートのものだ。だ が、生きているためには変化が必要なのに、あなたはその移ろいやすさを許せないから、それは新鮮さを失う。毎日、同じ夫——それはまったくうんざりする体 験だ。それはあなたの感受性を鈍らせる、喜びのあらゆる可能性をそいでしまう。あなたはゆっくりと笑いの言語を忘れはじめる。生はどんな喜びもないただの 仕事になる。そして、自分には妻がいて、子どもたちがいるのだから、人は仕事をしなければならない。

 

あなたは生まれたときからずっとそこにあった感情の支配から自分の愛を取り出さなければならない。そして、自分の存在への道筋を見出さなければならない。あなたの愛があなたの存在の一部にならない限り、それは痛み、苦しみ、悲しみとたいして変わりはない。

 

Osho, Om Shantih Shantih Shantih: The Soundless Sound, Peace Peace Peace, #17 より抜粋

 

質問 「私はこれまでの人生でずっと、自分はだれかを愛していると考えてきました。ところが今、あなたといっしょにここにいると、私は初めて自分に尋ねるのです——「私はほんとうに愛したことがあったのだろうか? そもそも愛することができるのだろうか? 私はあなたを愛することができるのだろうか? それとも、愛の幸せがもはや起こらない人生の地点にまで、私は到達してしまったのだろうか?」

 
OSHO
あなたには基本的な誤解がある、自分はつねにだれかを愛してきたと思い違いしている。 これはどんな人間にも当てはまるもっとも重要なことのひとつだ。彼らの愛はつねにだれかに向けられている、それには方向性がある——そして愛を方向づけた瞬間、あなたは愛を殺してしまう。それはまるで「僕は君のためだけに息をしよう——君がいなくなったら、どうして息などできようか?」と言うようなものだ。

 愛は呼吸のようなものであるべきだ。それはただあなたのなかの質であるべきだ——あなたがどこにいようと、だれといっしょにいようと、あるいはひとりでいるときでさえ、あなたからは愛があふれだしている。それはだれかと愛情関係になることではない——それは愛であるということだ。

 人びとが愛の経験に失望するのは、愛のなにかが間違っているからではない……彼らは愛の範囲を狭めていって、愛の大海はそこにとどまれなくなってしまう。あなたは海を抱え込むことができない——それは小さな川ではない。愛はあなたの全存在だ——愛はあなたの神聖さだ。

人は自分が愛情に満ちているかどうかを考えるべきだ。愛の対象という問題は起こってこない。妻といっしょにいたら、あなたは自分の妻を愛する。子どもたちといっしょにいたら、自分の子どもたちを愛する。召使といっしょにいたら、自分の召使たちを愛する。友人たちといっしょにいたら、自分の友人たちを愛する。樹々のそばにいたら、その樹々を愛する。海のそばにいたら、海を愛する。

 あなたは愛だ。

 愛は対象に依存するのではなく、あなたの主体から放たれる輝きだ。あなたの魂が放つ輝きだ。この放出される輝きが広大なほど、あなたの魂はより大きい。愛の翼を大きく広げるほど、あなたの存在の天空はさらに広大になる。

 あなたはすべての人間に共通した誤解のもとに生きてきた。今あなたは尋ねている、「私はあなたを愛することができるのだろうか?」と。またしても同じ誤解だ。

 ただこう尋ねなさい、「私は愛になることができるだろうか?」と。

 私の実在のもとにあるとき、あなたは私を愛することなど考えなくてもいい。そうでないなら、あなたはよくある誤解から抜け出していない。ここでは、あなたは学ばなくてはいけない……ただ愛であることを。もちろん、あなたの愛は私にも届くだろう。それは他の人たちにも届くだろう。それはあなたを取り巻くバイブ(波動)で、四方八方に広がっていく。そしてこんなに多くの人たちがただその愛を、その歌を、そのエクスタシーを放射していると、この場所全体がひとつの寺院になる。これ以外に寺院をつくる方法はない。そのとき、この地域一帯が新たな種類のエネルギーに満たされ、それから外れる人などひとりもいない——なぜなら、あなたの
上にはこんなに多くの人びとの愛が降り注いでいるからだ。

それぞれひとりひとりに、これほど多くの人びとの愛が降り注いでいる。

 その誤解を落としなさい。

そしてその誤解のせいで、別の疑問があなたのなかにわいてくる、「それとも、愛の幸せがもはや起こらない人生の地点にまで、私は到達してしまったのだろうか?」人生は愛が花開く機会にほかならない。あなたが生きているかぎり、その機会は失われない——最後の息をひきとるときまで。あなたは一生、見逃しつづけたかもしれない。最後に息をひきとるとき、この世の最期の瞬間、愛であることができるなら、あなたはなにも見逃していない——というのも、愛の一瞬は愛の永遠すべてに等しいからだ。

Osho, The Rebellious Spirit, Talk #5 より抜粋