旭川へ行った理由 | 翕 然(胡麻柴の布袋号景虎と+α)

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主に8割が我が家の柴犬・景虎の事について。残る2割は何気ない日常のあれこれ。更新は基本的にスローペースで、のらりくらりやってます(•∀•)

  

さて、今回私が時間に追われてヒィヒィ言いながらも旭川に行った一番の目的とは一体何だったのか

  

  

それは旭川にある北海道護国神社に御参りするためでした神社

  

  

御参りに行った時は私以外に人がおらず、とても静かでした。この北海道護国神社には第二次世界大戦(大東亜戦争)にまつわる、とある碑があります

  

  

それは第七師団・歩兵第二十八連隊の一木支隊の鎮魂碑です。私が今回どうしても旭川に来ておきたかったのはこれが理由でした


一木支隊と言えばソロモン諸島のガダルカナル島で玉砕した事で有名だと思います。実は私の母方の祖母の叔父さん(祖母の母親の弟さん、私にとっては曾祖叔父になります)がその中の一人であり、それで戦死しています。享年は27歳でした

  

  

1942年(昭和17年)8月21日、ソロモン諸島ガダルカナル島のイル川渡河戦(別名:テナルの戦い)において中川西下流地区で玉砕したそうです

おそらくこの戦いの全容はネットでイル川渡河戦と入力して検索したらWikipediaなどで見る事ができると思います


札幌市の中島公園にも護国神社があり、いつもはそちらで御参りをしています。しかしこの一木支隊の碑は旭川にしかないため、いろいろと忙しくなる前に来たいと思っていました

また本日、6月23日は沖縄慰霊の日です。日本で唯一の地上戦が行われた沖縄ですが、その沖縄の地上戦で私の母方の祖父の甥っ子さんが眞縈平において戦死していました

認定された日は1947年(昭和22年)6月20日とありますが、この時にはすでに戦争は終わっているので、命日はおそらく地上戦が激化した1945年(昭和20年)6月20日あたりではないかなと思っています。祖父の甥っ子さんの享年は22歳でした

  

  

札幌の護国神社には沖縄戦で亡くなった方の名前が刻まれた碑があり、祖父の甥っ子さんの名前も刻まれています。私はいつも本殿で御参りした後に必ずその碑に寄って行きます

なんか護国神社の沖縄戦の碑のところに女の人がいるなーと思ったら、もしかするとそれは私かもしれません。本当は御先祖様達のお墓に赴くのが一番いいのかなとは思いますが、お墓の場所が分からないので神社で御参りする形をとっています



私の祖父も第二次世界大戦時に軍人となって戦争のために満州に渡り、終戦後は3年ほどシベリアに抑留されましたが無事に日本に帰って来れました

祖父がそのように無事だった事もあり、私は自分の身内に戦死された方がいるなど思いもしませんでした。そして何より、祖父は自分が経験した戦争の話はしても自分の甥っ子が戦死した話を一度も私にした事はありませんでした


私が沖縄戦で亡くなった身内がいた事を知ったのは、祖父が亡くなった後に手続きの関係で祖父の一族の戸籍謄本を取り寄せた時です

祖父は親戚達との仲も良く、何より他の甥っ子さんや姪っ子さん達にも慕われている人でもあったので沖縄戦で亡くなった甥っ子さんの事を知らないはずがないと思います

それにこの甥っ子さんは祖父の長兄(本家)の4番目の息子さんで、祖父はこの長兄の1番目の息子さんとは叔父と甥の間柄ではありますが生まれた年が一緒(どちらも1917年(大正6年)生まれ)だったので歳が同じな上にすごく仲が良かったので、この甥っ子さんの戦死の事を知らないのは尚更おかしい気もします


どうして語らなかったのか、その事実を祖父が亡くなった今となっては知る術はどこにもありません

何でも教えてくれたあの祖父が、亡くなるまで一切口にしなかった事を考えると口にしたくなかったのかなとも思います



沖縄戦もガダルカナル島での戦いも、無事に帰って来た祖父がいる自分には遠いもののように感じていました。しかし他の誰よりも一番近いところにいたのだと、戦死した身内の存在を知った事で痛感しました

それと同時に軽い感じで済ませたくないなとも思いました。上手く言い表せませんが、そうなんだ〜の一言で終わらせてはいけないようなそんな感じです。それが彼等と同じ血が流れる眷属である自分にできる唯一の事かなとも思っています


ちなみに旭川に行った6月15日はガダルカナル島で戦死した曾祖母の弟さんの誕生日だった日でした(1915年(大正4年)6月15日生まれでした)

命日も去ることながら、故人のかつての誕生日だった日も大切にしてあげたいよな〜と思った旭川の旅でした。そして、まだ日にちに余裕がありそうなら参番館に行きたいな〜とも思っている今日この頃です(すごく心残りだった…)