最近、あるインターネット番組での激しい教育論争を観る機会がありました。


「体罰は絶対悪だ。子どもの権利を尊重すべきだ。」

「今の教育は甘すぎる。厳しく育てなければ社会では通用しない。」


どちらにも一理あるように聞こえます。しかし、不思議なことに、教育論はいつも極端な二項対立になりがちです。


体罰か自由か。

規律か自主性か。

保守かリベラルか。


本当に教育とは、そのような単純な話なのでしょうか。


私は外科医として臨床に携わり、研究も行っています。その立場から考えると、この種の議論には一つ共通した欠点があるように思います。


それは、「理想的な教育者」や「一部の成功体験」を前提に語られやすいことです。


医療の世界では、どれほど劇的な効果がある手術手技であっても、「名人だけができる方法」は標準治療にはなりません。術者の卓越した技量や特殊な条件がなければ重大な合併症が起こるのであれば、その治療法は再現性に乏しいからです。


だから医療では、ガイドラインも手術手技も、「平均的な医師が一定の質で、安全に実践できるか」が最も重視されます。制度は、天才のためではなく、多くの人が安全に運用できるよう設計されるべきものだからです。


私は教育も、まったく同じではないかと考えています。


厳格な指導や極端な規律が、今なお一部で「効果があった」と支持されるのは、それによって救われた人が実際に存在するからでしょう。また、現代教育の「ぬるさ」や「忍耐力の低下」に対する問題提起そのものには、耳を傾けるべき点もあると思います。


しかし、そのことと、「だから厳しい教育を制度として採用すべきだ」という結論は別問題です。


医療で例えるなら、それは劇薬のようなものです。


劇薬は、専門医が適応を慎重に見極め、緻密な管理のもとで使用するからこそ薬になります。しかし、扱いを誤れば重篤な副作用を引き起こし、ときには命さえ奪います。だから劇薬を標準治療にすることはありません。


教育も同じではないでしょうか。


仮に、ごく一部の卓越した教育者が厳しい指導を教育的に機能させた例があったとしても、それを制度全体の原則にすることはできません。


教育者の能力や資質には大きな幅があります。人格的に成熟した人もいれば、感情的な人もいます。経験豊富な人もいれば、未熟な人もいます。権力を誤用してしまう人も、残念ながら一定数存在します。


理想的な教育者であれば、厳しさという「劇薬」を絶妙に使いこなせるのかもしれません。しかし、そのような人ばかりが学校や家庭にいるわけではありません。教育という、あらゆる大人が関わる巨大なシステムにおいて、「劇薬の使用」を前提に制度を設計することは、あまりにもリスクが高いのです。


だから私は、現代教育が体罰を強く否定する理由はここにあるのではないかと考えています。


「暴力を適切に使えば教育効果がある」と主張する人がいたとしても、その前提には「適切に使える理想的な教育者」が必要になります。しかし、現実の制度設計は、そのような理想条件を前提にはできません。


「暴力を用いない」という原則は、単なる道徳論ではなく、システムエラーによる重大な事故を防ぐための安全装置であり、リスクマネジメントなのだと思います。


もちろん、だからといって現代教育に課題がないとは思いません。


失敗を恐れすぎること。

競争を避けること。

忍耐を軽視すること。


こうした点については、今後も議論を続けるべきでしょう。


しかし、その問題意識と、極端な教育手法を制度として採用することは、分けて考えなければなりません。


私は以前、教育とは「良い先生がどう教えるか」を考えるものだと思っていました。


しかし今は少し違います。


教育とは、「良い先生」を前提に考えるものではなく、「普通の先生でも、普通の子どもでも、できるだけ健全な方向へ進める仕組み」を考えることではないでしょうか。


医療でも教育でも、人間は理想どおりには動きません。


だからこそ制度は、人間の弱さや運用のばらつきを前提として設計されるべきなのです。


極端な教育論は耳に残ります。しかし、本当に難しく、私たちが向き合うべきなのは、その間にある広いグラデーションを考え続けることだと思います。