先日、妊婦さんが電車で誰にも席を譲ってもらえなかった、というSNS投稿が話題になっていました。
それに対して、
「妊婦さんには席を譲るべきだ」
「なぜ妊娠したことが他人の問題になるのか」
「座っている人にも事情がある」
「最近の人は思いやりがない」
など、いろいろな意見が出ていました。
この手の話題は、いつも「席を譲るべきか、譲らなくてもいいのか」という論争になります。
でも私は、そもそもこの問いの立て方自体が少し違うのではないかと思っています。
電車やバスの席は、別に自分のものではありません。
たまたま空いていたから、一時的に座らせてもらっているだけです。
もちろん、座ること自体が悪いわけではありません。
疲れているときもありますし、体調が悪いときもあります。
若く見えても、外からは分からない病気や痛みを抱えている人もいます。
だから、座っている人を見て簡単に「なぜ譲らないんだ」と責めることはできません。
ただ一方で、自分が立っても大きく困らない状況で、目の前に妊婦さんや高齢者、子ども連れ、体調の悪そうな人がいれば、私は自然に席を空けます。
「どうぞ」と大げさに言うこともあまりありません。
まずは普通に立ちます。
相手が気づかなければ、一言だけ「どうぞ」と声をかけます。
それくらいでいいと思っています。
なぜそうするのかを考えると、たぶん私は、席を譲るという行為をあまり「善行」として扱いたくないのだと思います。
「自分はいいことをしました」
「あなたのために譲ってあげました」
「感謝してください」
そういう雰囲気を出したくない。
譲られた側にも、余計な負担を感じてほしくありません。
周囲にも、善意をアピールしているように見られたくありません。
そして何より、自分自身の中でも「俺は親切なことをした」と強調したくないのです。
ただ、そこに席があり、より必要そうな人がいて、自分は立てる。
だから、席の使用をやめる。
それだけのことです。
混んでいる電車では、そもそも私は最初から座らないことも多いです。
席が空いていても、そのまま立っている。
すると、すぐに誰かが座ります。
それが高齢者や子どもだったら、心の中で「よかったな」と思います。
若い人が座ったら、「お前が座るんかい」と軽くツッコミを入れることもあります。
でも、それだけです。
その若い人にも、もしかすると見えない事情があるかもしれません。
体調が悪いのかもしれない。
足が痛いのかもしれない。
ものすごく疲れているのかもしれない。
外から見ただけでは分かりません。
だから、否定も怒りもしません。
自分の想定と違った、くらいの話です。
そもそも、私はその席を「自分が譲ったもの」と強く思っていません。
一度空けた時点で、その席はもう自分の管理下にはありません。
誰が座るかまで、自分が決めることではないのです。
この感覚は、もしかすると医療者として働いていることとも関係しているのかもしれません。
医療の現場では、資源は限られています。
外来枠、手術室、病床、救急対応、医療者の時間や労力。
それらは誰かの所有物ではなく、そのとき最も必要な人に回していくものです。
救急では、先に来た人から順番に診るとは限りません。
より危険な人、より急ぐ人、放置すると悪くなる人を優先します。
それは「ひいき」ではなく、限られた資源をできるだけ適切に使うためです。
もちろん、電車の席と医療資源を完全に同じものとして語るつもりはありません。
でも、根っこにある感覚は少し似ている気がします。
公共のものは、早い者勝ちで自分の所有物になるわけではない。
必要性が高い人がいれば、そこに自然に回る方がいい。
自分が少し引くことで、誰かの危険や負担が減るなら、それは普通にやればいい。
これは「優しさ」というより、公共の場での身の置き方のようなものだと思います。
子どもには、ただ「お年寄りや妊婦さんには席を譲りなさい」と教えるだけでは、少し足りない気がします。
もちろん、それも大事です。
でも本当は、その前に、
「公共のものを、自分のものだと勘違いしない」
「自分より必要そうな人がいたら、自然に手放す」
「善意を見せびらかさない」
「外見だけで人を決めつけない」
「自分の親切の結果を支配しようとしない」
そういう感覚を伝えたい。
席を譲るかどうかという話は、実はかなり小さな話です。
でも、その小さな場面に、その人の公共性や他者への想像力が出る気がします。
自分が座れる。
でも、誰かの方がもっと必要かもしれない。
だから、少しだけ場所を空ける。
それは立派な善行ではなく、社会の中で生きる上での、ささやかな調整なのだと思います。
そして、そういう調整が自然にできる人が増えれば、社会は少しだけ暮らしやすくなるのではないでしょうか。