最近、「直美」という言葉がしばしば話題になります。
初期研修を終えたあと、一般的な臨床の修練を十分に積まず、そのまま美容外科へ進む医師たちを指して使われる言葉です。

この話題が出ると、強い批判が起こります。
もちろん、職業選択は本来個人の自由です。違法でもない。本人が納得して選ぶのであれば、外から一律に断罪できるものではありません。
私自身も、その点は前提として認めています。

ただ、それでもなお、この問題が多くの人の反感を買うのはなぜなのか。
それを考えると、単純な嫉妬や保守性だけではないものが見えてきます。

おそらく多くの人は、「自由だから何を選んでもよい」というところで思考を止めていません。
そうではなく、医師という職業には、自由と同時に、ある種の責任や公共性が期待されていると感じているのだと思います。

医師は、ただの高収入資格ではありません。
社会の信頼の上に成り立ち、制度に守られ、育てられながら一人前になっていく職業です。
しかもその根底には、利益だけでは割り切れない価値観がある。
コスパが悪くても、患者のために引き受ける。
損得だけでは動かない。
そうした規範が、努力目標としてでも医師には求められている。
だからこそ、早い段階で収益性の高い領域へ振り切る姿が、「自由の行使」としては理解できても、「医師としての責任を十分に果たしていない」と映るのでしょう。

私は直美そのものを感情的に批判したいわけではありません。
人間は、楽な方へ流れます。
報われやすい方、コスパの良い方へ引かれるのは自然なことです。
それは誰でも同じですし、自分だけが例外だとは思いません。

だから、直美という現象を見ても、単純に「けしからん」とは思いません。
そうした選択が生まれる構造も理解できます。
もし自分が今の仕事を本当に請け負えなくなったら、私自身も撤退するかもしれません。
請け負えないものを、無理に請け負い続けるべきだとも思っていません。

ただ、それでもやはり思うのです。
人は、持続可能である限り、なるべく何かを背負うべきではないかと。

自分を壊してまで尽くせ、という話ではありません。
まずは自分の人生を守ることが大切です。
合わないなら離れてよいし、限界なら撤退してよい。
その意味で、基本は自分優先でいいと私は思っています。

けれど、その上でなお、自分が持てる範囲の責任を引き受ける。
自分の利益だけではなく、社会や他人のために少し重いものを持とうとする。
そこに、人間の強さや美しさがあると私は感じています。

外科の仕事は、幸い私の性質に合っています。
だから続けられている面が大きい。
ただ、給料と労力のバランスだけを見れば、決してコスパの良い仕事ではありません。
それでも続けているのは、この仕事が社会への還元でもあると感じているからです。
崇高な理念があるわけではありません。
ただ、自分は社会に育てられ、守られてきた側の人間であり、そのぶん何かを返していかなければならない、という感覚があります。
だから、安易に軽い方へ流れず、外科医として働き続けることを、自分自身への課題としているのです。

そして、この感覚は、子育てをする中でも大事にしたい価値観になっています。

子どもたちには、無理をして壊れる人間になってほしいわけではありません。
まずは自分の人生を大切にしてほしい。
自分に合う道を選び、持続可能な形で生きてほしい。
でもその一方で、損得だけで人生を選ぶ人にはなってほしくないとも思っています。

楽な方があれば、人はそちらへ行きたくなる。
それは当然です。
だからこそ、自分の中に「それでもこちらを選ぶ」という規範を持てるかどうかが、その人の価値観を表すのだと思います。

私は子どもたちに、自己犠牲を教えたいわけではありません。
ただ、自分を守りながら、その中で可能な限り、社会や他人に奉仕できる人間であってほしい。
自由を持ちながら、その自由の使い方に責任を持てる人であってほしい。
支えられて生きてきたことを知り、そのぶん自分もまた少し返していこうと思える人であってほしい。
そんなふうに願っています。

直美という話題がこれほど人の感情を動かすのは、単に医師の進路の問題ではないからでしょう。
その背後には、自由とは何か、責任とは何か、人はどこまで自分の利益を優先してよいのか、という、もっと普遍的な問いがあります。

子育てもまた、同じ問いの連続です。
どこまで本人の自由を尊重するのか。
どこで責任を教えるのか。
楽な道を否定せず、それでも安易な合理性だけで生きない感覚を、どう伝えるのか。

親として考えているのは、結局そういうことなのだと思います。