このブログの趣旨でもある、模試の偏差値という『数字』を追われる日々の中で、その先にある『構造』の危うさについて今回は書いてみようと思います。

 

よく言われることですが、勉強ができるだけでは良い医師にはなれません。

そして本当の問題は、その当たり前の事実に、医師自身が気づきにくい構造があることです。

 

まず前提として、医学部に受かる人は間違いなく学業優秀です。

医学部受験を突破するには、高い情報処理能力、継続力、忍耐力、そして地道に積み上げる力が要ります。勉強ができなければ、そもそも医師にはなれません。ですから、「勉強は大事か」と問われれば、答えはもちろんイエスです。

 

ただ、本当に重要なのはその先です。

 

医学部受験で評価される「勉強ができる」という能力は、医師に必要な資質の一部ではあっても、全てではありません。

実際の医療現場で問われるのは、正解のない状況で判断する力、自分の限界を認める力、他職種と調整する力、感情を制御する力、そしてチームの中で信頼を得る社会性です。医療は、受験のように一人で正解を当てる競技ではありません。不確実な状況の中で、人と協力しながら、より良い答えを探し続ける仕事です。

そしてこの「正解がある問題」と、「正解がない問題」に向き合うこと自体、実は同じ思考の延長線上にはないというのが私の考えです。

前者は一つの思考の軸で処理すればよいことが多いですが、後者は複数の異なった思考の軸が必要だからです。

つまり、前者が得意でも、後者は苦手、ということは普通にあると言うことです。

そして社会に出たら、実は後者の方が圧倒的に求められる機会が多いのです。

 

ところが医師という職業は、こうした力が十分に問われないまま社会に出やすい、かなり特殊な構造を持っています。

多くの若者は就職活動の段階で、自分の未熟さや社会性の乏しさを思い知らされます。

自分がどう見られるか、他人とどう関わるか、どれだけ幼いかを、嫌でも突きつけられる。

ですが医師は違います。勉強という強い一本の軸で評価され続け、そのまま国家試験に合格し、社会に出た瞬間から「先生」と呼ばれる。まだ何もできない段階なのに、いきなり指示を出す側に立つ。これはかなり異様です。

 

その結果、何が起こるか。

勉強ができるという一点の優秀さを、いつの間にか「自分は全体として優秀なのだ」という錯覚にまで広げてしまう人が出てきます。

しかも厄介なのは、その勘違いを社会が修正してくれにくいことです。肩書きや立場が、未熟な自己評価をむしろ保護してしまうからです。

 

医師という職業の怖さは、ここにあります。

未熟でも、先に権威が与えられてしまう。

実力より先に、「先生」という立場だけが来てしまう。

だからこそこの職業では、そうした危うさを自分で気づけるかどうかが極めて重要になります。

 

ここからは親子さんへのメッセージです。

子どもに医師を目指してほしいなら、勉強を頑張らせることはもちろん大事です。

しかし、それと同じくらい、あるいは場合によってはそれ以上に、心の成熟を大事にしてほしいと思います。

 

ここで言う心の成熟とは、綺麗事ではありません。

謙虚さ、他人の立場を想像する力、注意された時に反発ではなく省察できる力、自分の非を認める力、感情で周囲を振り回さない力、うまくいかない時に他責に逃げない力。

これらは人格の飾りではなく、医師として安全に働くための実務能力です。

未熟さは、単なる性格の問題では終わりません。判断の歪みになり、チームの停滞になり、ときに患者の不利益になります。

 

勉強ができる子は、早い段階から「優秀だ」と評価されます。

ですが、その評価に親まで完全に乗ってしまうと危うい。学力の高さはもちろん大きな武器ですが、人としての成熟まで保証してくれるわけではないからです。むしろ医学部という環境は、その勘違いを温存しやすい。

だからこそ家庭の中で、「勉強が出来ること」と「人として成熟していること」は別だと伝える意味は大きいのです。

 

医学部受験は、学力の高い人を選ぶ仕組みではあります。

しかし、それだけで成熟した職業人を育てる仕組みではありません。

医師という仕事は、知識だけでなく、未熟な自分を自覚し続け、学び直し続ける力が問われる仕事なのです。

 

子どもに医師を目指してほしいと思うなら、成績だけを見ないことです。

本当に大事なのは、学力と同じくらい、心が成熟していくことです。

それは綺麗事ではありません。

良い医師になるための、本質的な条件の一つです。