このblog内の ”シリーズ『毒親』” で書いているように、我が父は高い確率でアスペルガー症候群とともに生きる人間であると、心理士の卵である一人娘は確信しています。まぁね、今さら80代になった父を専門家に診てもらって、公式な診断をつけるつもりもなく、なんならこの国の戦中、戦後を生きてきた80代以上の男性については似たようなタイプの人が多く、根性根性家族より会社や仕事の方が大切家族は犠牲になって当然的な父親を持つ人の多さときたらね
私が父のことをblogに書くと決め、自身の『心理学』の学びとして、これまでの経験や気づき、時には分析と考察を綴っていく中で、
「うちの父も同じ感じで、母が長年苦しんできた。」
と、打ち明けてくれる友人や知り合いの多いことに驚いたしだい
先ほど述べた根性論もしかり、年功序列、男尊女卑etc.etc. しかし私は、これらの思考や思想が間違っていると思っているわけではありません。日本人のまじめで従順、そして忠誠心が強い国民性から、これらを過剰に信じ込んでしまい、依存し、すべての事象に当てはめ、正論として行動するというところに問題があるわけです。
戦後、日本の復興のため、昼夜問わず働きづめだった世代の人にとっては、人間の心身ともの発達段階を健全に経ていないということが多大にあり、ある意味、洗脳や呪縛ともとれる多くの自動思考が染みついている節があります
アメリカの心理学者であり、精神分析家のE・H・エリクソンの発達段階における青年期(13~19歳)の課題は「アイデンティティーと同一性の拡散」。自分はどんな人間で、何ものであるのかということに思い悩み、これまでは主に外界に向けられていた目が、自分自身に向けられるようになる時期です。まさに自分自身との対話が必要なわけで、寝る間も惜しんで働いてたら、まぁそんな時間は持てんわな
そうして人間は、恋愛含む人間関係の壁にぶかったり、出会いや別れを経験し、悩み苦しみ、子どもの頃には気づいていなかった自分に気づく。まさにこの時期は私達人間にとって最初の覚醒、あるいは自我の発見の時期となるわけです。
これを父の世代に当てはめてみましょう。
うちの父は中卒で、中学生の頃から祖父の仕事の助けをしながら、新聞配達をしていました。そして中学校を卒業して鉄工所に就職し、もって生まれた器用さのお陰で腕のいい職人として機械製品を設計、開発、整備していたそうです。最初のお給料をもらったときは、メチャクチャ嬉しかったと言っていました
そうして家族のために必死に働いていた青年期は、時代背景と父の家族の経済状況を鑑みるに、自由な恋愛や、友人と娯楽を楽しむことなど皆無だったと思われ、例えば私が若い頃に『愛』という言葉を使ったときなんて、
「愛なんかな、すぐ醒めるんや何が愛じゃちゃんちゃらおかしいわ。」
と言ってましたからね~、最低やん
まぁ、豊かになった日本を生きる我が子世代に対する嫉妬や怒りがあったのでしょうが、それにしても大人げないでしょ精神年齢の低さの象徴
こういうところなんです...
まずここで、アスペルガー症候群の特徴の一つである「自分が正しい」、そしてそれをはずかし気もなく口にする。これは人間性から出ている言葉ではなく、自分と違う意見を持つ人は間違っているという判断であり、その場合は自分が正義なので平気で間違っている(と判断した)相手をバカにするようなことが言えるんです。
意地悪でもなんでもないそして、言い聞かせて間違いを正そうとします。
例えば、父のような個性を抱えて生きていない人の場合は、頑固でも、わがままでも、ある程度の年齢になって生活が落ち着くと「我が道を行く」人生になって、遅ればせながら、抜け落ちた発達段階を少しずつ埋めるような行動をしたり、一人で考えを思いめぐらせたり、生活のリズムを年齢に合わせてコントロールしていったりしています。経営者であれば自分は第一線を退いて後進にお役目を譲り、サポートに徹する。そしてできた時間を夫婦や家族のために使うとかね
後期高齢者と呼ばれる頃には、お仕事や社会貢献をしながらも、少しゆったりしたペースで人生を楽しんでいる人が、私には幸福に見えますがねアスペルガー症候群とともに生きる人はね、よく言うとよく働く、悪く言うと諦めが悪くしがみつく(笑)、ステイタス主義の傾向が強いのも特徴ですよね
そしてここから、ではない人達は、同じくアメリカの心理学者であるアブラハム・マズローの発達段階である欲求5段階説へと移行していく。ここで『自己実現の欲求』を追求できるようになった人は、あまり他人のことが気にならなくなります。
私はマズローのこの理論が大好きなので、又いつか改めて解説したいと思っています
逆にアスペルガー症候群とともに生きる人は、他人のことがとても気になりますそれは自分が強いこだわりを持つあまり、他人のすることがそれに違うことで怒りを感じたり、正義中毒によって、それを正さなければいけないという間違った使命感を持ったり、要は自分の思い通りにならないと納得がいかないわけですなんとかして自分に心地よい状況にしようとして、人とぶつかったり、問題を起こしたりするのです。
だからね、私達が傷つくことはないんです。この個性を持つ人は、怒りと苦しみと喜びを感じることはできますが、共感や悲しさ、切なさのような人間的な繊細な思いはあまり感じません。
だからね、いいんですよ、共感してあげなくても...
その場を冷静に、ときには冷酷であってもいいので淡々と事実を述べて諦めさせる。こちらが感情に振り回されてはいけない。彼らがなんと言っても、
「もういいから、自分のことを考えて他人のことは考えなくてもいいからね、何もしなくていい。まず自分のことをした方がいい。」
私達が持つ知識や情報、理屈や理論、なんなら一般常識も通じませんから(笑)この人達にはそれぞれのこだわりと、ルールと、正義があります。それを否定することなく、いらんことを人に言わないように事前に止めてあげるのが、私達にできることなのです。そしてその上で口先三寸でもいい、認めて褒めてあげてください
こちらがいかに感情をフラットに対応し、落ち着かせ、なだめることができるか。
まさにここで『愛』はいりません(笑)
相手のことを思い過ぎて、必死になって、あなたが傷つく必要はまったくない...
必要なのは寄り添い過ぎず、近づき過ぎず、少し遠くから相手の幸せを祈る心かなと考えています