母は昭和12年、父は15年生まれで、母は姉さん女房でしたが、社会的に成功している男性には年上の奥さんがいるということは、まぁまぁ多いですよねハート私の両親も例にたがわず、母が年上で名家の出であったことで色々な作法を父に伝え、教え、育ててきた感があります。父は母のすすめで、30代の頃に忙しい仕事の合間を縫って茶道と習字を習っていましたしねブーケ1

 

はい、うちの父は中卒ですパー戦後、父は家族の経済状況により高校進学を諦めなければならず、修学旅行も代金が払えず行くことができなかった。そして長男であったため、祖父と二人で10代から家族を経済的に支える責任を自ら受け入れた人です。祖父は戦前、都会のホテルの腕のいいコックさんだったそうですが、戦中に妻である祖母の故郷に帰ってからは、そのスキルを活かして働くことができず、家族を満足に食べさせることができなかった。

 

明治生まれのがんこ者おじいちゃん家族のためとはいえ、自分の納得のいかない仕事はできなかった人です。でも孫である私のことはとても大切にしてくれて、他のいとこ達とは完全に区別していました。いつもおじいちゃんの部屋で、一緒に野球と相撲、そして時代劇を観ていた想い出...テレビ幼少の頃多くの時間をともに過ごし、私の人格形成に大きな影響を与えたのは母方の祖母と、この父方の祖父であると言えます。

 

でも父が社会的に成功し、完全に息子に面倒を見てもらう立場になってからは、時折ひがんだような口調で息子である父のことを言っていたことが記憶に残っています。とにかく父の口癖は、「わしは一人でここまでやって来たグー」でしたから。父の家族を母子家庭だと思っていた人がたくさんいたということは、後になって分かったことで、普段から祖父の存在を気にかける言葉が父から出ることは、ほぼなかったということでしょうね汗

 

まぁ、しゃーない...アスペルガーですから...ニヒヒ

 

わしが、わしがで、いつも自分目線目自分が正しく自分が正義であって、それを認めてもらうことで幸せを感じ、それがさらなるモチベーションにつながるわけで、自分が一番がんばっていることが自負であるということが、残念ながら人を見下したり、敵であると認識した相手と戦い、悪は叩き潰すという発想になってしまうことも多々あるというねナイフそういう歴史上の人物...何人か思い浮かびませんかガーン

 

さて一方で、母は自身の義理の父と母である私の祖父母のことを、本当に大切にしていましたリボン

「私は経済的に裕福な家で育ったから、戦争中も食べる物や着る物に困ったことはない。でもおじいちゃんとおばあちゃんは、これまで大変な思いをしてきたと思う。だから人生の最後は幸せでいてもらいたいのよ。」

 

祖母が晩年、一時的に認知症を患った時も、義理の娘である母のことだけを覚えていました脳みそどれだけ母が愛情をかけて、姑とともに時間を過ごしてきたかが分かる事象です。何人かいる実の娘=私にとってはおばですが、彼女達のことなど一言も言わず、なんならそのおばの一人が、孫である私と重なって、私をそのおばの名前で呼んでいましたからねもやもや私はめちゃくちゃ嫌でしたけどね、そのおばのことが嫌いでしたから…ムキー

 

でも母のことは「ママむらさき音符ママピンク音符」とこれまでと変わらず呼び続け、普通に普通のことを話していましたから。母の前で祖母の心は平穏だったのでしょうね。ホンマにその時だけはまともでしたからね、不思議よね〜おねがい

 

母は、自分の夫とその家族の幸せのために一生懸命でしたクローバーそれを私は勝手に、母は犠牲的精神でそれをやっていたのだと、自分のことを後回しにしていたのだと、我慢我慢の人生だったのだと、思い込んでいました悲しい

 

そんな中2021年が明け、母の四十九日の法要の場で父と一悶着ありまして、父に対する憎しみと怒りが沸きあがり、私は勝手に復讐を誓ったのです炎

 

To be continued.手裏剣