母が旅立って3年と5か月...”日にち薬”とはよく言ったもので、時間の経過は人の心を癒してくれます。まぁ、そうでないと人は生きていけないと思われ「忘れる」という能力は本当にありがたく、なくてはならないものであるということを、母のdepartureのお陰で悟ったしだい
今では母がいない実家にも慣れ、それと同時に父の個性にも慣れ、母の復讐を誓ったことや、父との先のことを考えて途方に暮れたことや、毎日過呼吸と激しい動悸で苦しんだことも、まだ笑い話とまではいかないけれど、「そんな~時代も~あ~ったねと~」と、人に話せるようになりました。
そんな中、私の心には色々と変化があって、このシリーズをお読みいただいている方はご存じのように、亡くなる前の約3年間、毎日一人娘に、夫(娘にとっては父)の悪口を言い続けた母ってどうよという思いが沸き上がってきたんです。
父は確かにアカン夫であり、アカン父でした。いや、ほんまに家庭不適合者だと思われ、身内に対してはなんの遠慮もなく、思ったことを言いまくって、いつも最後にはお決まりの、
「誰が稼いで、お前らを食わしてると思ってるんやお前ら女は、わしの金を遣いまくる。ここにある物は全部わしのもん、わし一人でここまでやってきたんや」
私はいつも思ってました。
誰がパパのご飯を作って、誰が汚くなったパパの服を洗濯して、誰が家の中を掃除してきれいにして、誰がゴミを出して、家を守ってると思ってんねんとねうちの父は社会的立場がある人で、外では正義の人...ということは、家族や身内より、市民、県民の皆さんのことが優先だと思って、仕事をしてきたと思われます。家族は犠牲になって当たり前、よくある父の世代の日本人男性の思考であり価値観
母もそれを重々承知で結婚し、父を支えることが自身の使命と決めて生きてきたはずなのですが、よくため息をついて言っていたのは、
「一番近くにいる家族のことを思いやれない人が、誰を助けられるというのか」
そういうことを言う母のことを、娘である私はどう思っていたか。
母は父よりはるかに精神性が高い人で、優しく寛容、外見も内面も美しい人でしたので、とても尊敬していて、母のような女性になりたいとも思っていました
でもここに来て、もしかしたら私は、母を買いかぶっていたのかも知れないと、少しずつ思うようになったのです。もちろん母を愛していることに今も変わりありませんが、勝手に自分の中で、すんごい女性に仕立て上げてしまっていたのかも知れないということですね
実は母は、父に普通に愛情表現をしてもらいたかったのではないか...
やさしい言葉や、いたわりの言葉をかけてほしかったのではないか...
一緒に出掛けたり、趣味を楽しんだりしたかったのでなないか...
母は名家の育ちで、品格があり、洗練された女性でした芸事を嗜み、日本文化にも精通しており、音楽を聴くことや芸術鑑賞が好きでした。でも父は仕事一筋で、趣味はほぼありません若い頃からゆったりした気分で過ごすことなどなく、いつも仕事に明け暮れていて家族団らんなど皆無、家族だけで旅行をしたことは一度もありません旅行に行ったのは、仕事関係の方の会社の社員旅行や、お世話になっている方の家族とのグループ旅行
私は全然平気でしたけどね(笑)それが普通だと思ってましたから。忙しいのが普通、パパが家にいないのも普通、祖父母と過ごすのが日常でしたし、十分ジジババには可愛がってもらいましたからねなんなら、父が家にいない方が平和でしたもん機嫌が悪いと、母に当たり散らしますから...同居していた父方の祖母が、よく謝っていました
To be continued.