今夜はサントリーで、カーチュン 日フィルのマラ9を聴く予定。
マラ9は大好きな曲。
結構な回数聴いてますが、最近は御無沙汰。
2022年10月にブロム N響で聴いたのが最後。
その年はマラ9の当たり年で、8月にヴァルチュハ 読響、3月に高関 シティでも聴きました。
その前は2020年まで遡り、1月にサロネン フィルハーモニア。
2019年は3月にドゥダメル LAフィル、2月にミョンフン 東フィル。
2018年も当たり年で、9月にラトル ロンドン響、5月に沼尻 神奈フィル、4月にカンブルラン 読響。
限りがないのでこの辺で。
マラ9が「死」をテーマにした作品か否かは、意見が分かれるところ。
少なくとも、マーラー(作曲時49歳)が自分の死を意識して、この世と別れを告げるために書いた曲でないことは明らか。
でも、やっぱり「死」を抜きには語れない。
カーチュンによれば、この曲は「人が死んでいく過程を描いた作品」であり、「生命が人間の身体を去っていく様子をこれほどリアルに音楽化した例は他にない」。
似たような作品に、RSの《死と浄化》(Tod und Verklärung)があります。
こちらは25歳のRSが、臨終のシーンを音化したもの。
カーチュンの解釈だと、マラ9は《死と浄化》と似たような作品に思えます。
本当にそうなのかな。
井上さんがこの曲について語った言葉はシカゴ響とマラ9を振った時の状況と紐付けたものですが、こっちのほうが本質を突いてるように思います。
「不安がマーラーには全て音楽として表れているから、自分の音楽をやっているように感じられた。」(動画10:03~10:12)
「(シカゴ響とマラ9を振った頃)自分自身の生活は色んな出来事があって、凄い大変な時期だった。父親が死んだ。日本のオーケストラと喧嘩する。ドイツのマネージャーとも大喧嘩する。恋人ともぐちゃぐちゃになる。鬱病だった時代だった。だから、マーラー9番をやることは有難かった。」(動画10:43~11:12)