みなさん、こんにちは。渡邊です。
前号では動物に関する例を挙げ【言った本人は悪意など全くない一言】が思わぬ刃となって人を傷つけてしまうことがあるという話を書きました。
今号はその続きです。。
よくよく注意をしておかなければすぐにそのことが頭から抜け落ちてしまって、ポロっとその刃を抜いてしまうことは、自分にとっても他人事では全くもってありません。
先日、ある映画を子どもたちと鑑賞している時でした。物語の中で、怖がる男の子を落ち着かせるために相棒の男の子がそっと手を握るというシーンがありました。その時にうちの子どもたちは一斉に、
「うわ!男どうしで手つなぐなんてキモい!」
と声をあげたんですね。私は瞬間的に、
「あかん、これは!」
と思いました。ですが咄嗟に言葉が出ず、「むむむ。。。」とテレビの画面をみつめているうちに完全にタイミングを逸してしまいました。
「おまえら、その一言でメチャクチャ傷つく人もおんねんぞ。絶対言ったらあかん。男が好きになる男もおるねん。」
この一言が出ませんでした。
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友人の中にも、教えている学生の中にも、その他関わっている色々な組織の中にも、LGBTQの方が何人もいらっしゃいます。自分では性的指向について理解をしているつもりでしたし、世に乱れ飛ぶ差別に断固として反対する姿勢をとっているつもりでした。ただそれはまだまだ意識していないといけない“つもり”レベルで、自分にとって本当に意味でのスタンダードになってはいなかったということを認めるしかなかったのです。
子どもが間違った時には間髪入れずに指摘することができなければ、自分の信念とは言えない。
相手のパンチにほぼ無意識的にパンチを合わせることができなければ効果的なカウンターとはならない。丹下のおやっさんも言ってました。
それはすなわち、自分もまだまだ差別をする側の人間に近いということを意味しています。
もしそこにLGBTQの私の知人が居合わせていたとしたら、子どもたちの言葉で傷つけるだけではなく、それをすぐにたしなめなかった私の態度でも二重に傷つけていたことでしょう。それで「理解している」なんて思っていた自分が恥ずかしい限りです。
何気ない一言。何気ない態度。何気ない表情。
そういったもので誰かを傷つける危険性にこの世は溢れていると言っても過言ではありまえん。自分のすぐそばにあるのです。それを「息苦しい」とか「生きにくい」社会というふうに称する人もいます。
けれども我々の大多数が思う「自由」や「普通」というのは、たまたまその社会や人類の中で属しているのが多数派で、その多数派の中の“常識”であるにすぎません。人類にとっての唯一絶対のルールでも思想でも正義では決してありえません。
たまたま数が多いだけ。
だから想像力に乏しければ悪気が伴わないのは当然のことなのです。ただそれがまた厄介。
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その悪気のない一言、態度、表情によって傷つく人が、もし自分にとって大切な人、身近な人だったら。。。こういう想像であればすることはそれほど難しくはないと思います。
実際私も、子どもたちに一喝できなかった時に、知人たちの顔が浮かび、申し訳ない気持ちに押しつぶされそうになりました。
これはまだ私が意識しようとしているLGBTQに関することでしたから、葛藤したり後悔することになりました。けれどもそれ以外にもまだまだたくさん自分のには差別や偏見が、日の目をみることなく潜んでいるに違いありません。それらを潰していくという生活は、息苦しくて生きにくいものなのでしょうか。
最後に、TVなどで活躍されている精神科医の名越康文さんがYouTubeでおっしゃっていた言葉を紹介したいと思います。我々が差別、偏見といった先入観、バイアスとどう立ち向かうべきかということについて、そしてそれらを克服することが個人にとっても社会にとってもプラスになるヒントが込められていると思います。
「先入観は持っていいんです。ただしそれが正しいとか間違っているとかが問題ではない。自分はそういう先入観を持っているということを意識して、次を見るんです。」
勿論間違った差別や偏見は、間違っていると知った時点で捨て去る覚悟を決めるべきです。ただそれが顕在化してきた時に、痛いからといって目を背けてしまうと検閲を逃れてしまいます。そのバイアスがあると認識しながら次の一歩を出すことで初めて明らかになるからです。
その先は明るい未来が待っている。そう感じます。
今回も最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。それでは。
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