罪に関して言えば自分というものがない。
もちろん、自分という認識は持っている。しかし、生きているのは、もはや、わたしではない。
父なる神、キリスト・イエス、聖霊がわたしの中に住んでおられる。
神の栄光はこの方にある。
わたしという人間にではない。
キリストの血がわたしを罪から解放した。
この状態がどんなものかを知ってほしい。
これを望んでいることは知っている。
是非、目指してほしい。そして何としても得てほしい。
だから、わざわざ真実の体験を書いている。
この状態を聖書は、神の再生する種、古い人格を脱ぎ捨ててキリストを着る、水と霊によって新しく生まれる、新しい創造等表現はいろいろだが、同じ意味です。
わたしは、「自分というものがない」と表現する。自我が打ち砕かれたとは言わない。
わたしの誇りは、わたしの中に住まわれる「神の栄光」である。
遠いところから神が来られるのではない。
すでに、神と一体だから、罪との戦いはない。
これが、パウロが言った「神の霊が宿っている限り、肉ではなく霊の支配下にある。」という状態。
どう、思う?
あなたもそうよね。
そう。
君も同じだね。
はい。