昨日は、午後から和歌山へ行っていました。
令和8年8月29日の南海電車「和歌山市駅」
この日は、奥様のリクエストで和歌山県民文化会館・大ホール開催されるゴスペラーズのライブに行ってきました。
奥様が、6月にNHKで放送された「SONGS」を見て「行ってみたい」と言い出しましたので、私もお供することに。
ゴスペラーズ・ライブのポスター
ゴスペラーズは、私より少しだけ年齢が下になる50代前半の方々ですが、5人の素晴らしいハーモニー、またアップテンポな曲ではパワフルで、堪能した2時間半でした。行ってよかった!
話は船に変わります。
明治期の帝国海軍では、民間の大型船を補助兵力として運用することを考えており、実際に日清戦争では「山城丸」のように実際に補助兵力として活躍した民間船舶がありました(日清戦争・巡洋艦代用となった優秀船「山城丸」の船暦)。
この要件をより具体化するために、明治37年に帝国海事協会では『平時は民間の商船として、有事には仮装巡洋艦として』運用できる優秀船の建造を計画し、その資金として全国民からの義金を募る運動を始めます。
当時は日露戦争中で、同じ思想の「義勇艦隊」を敵国である露国が保有していたこともあり、義金の状況も好調で明治37年からの6年間約156万人から415万円(現在の貨幣価値で約80億円)が集まります。
これを受けて建造されたのが、「さくら丸」「うめが香丸」「さかき丸」の3隻です。
この2隻は一度取り上げています(「特設巡洋艦」と「貨客船」二つの顔を持つ「義勇艦」の結末)が、今回は「うめが香丸」を取り上げます。
「うめが香丸」は、明治40年12月に三菱重工長崎造船所で起工され、明42年3月に進水、同年7月に竣工します。
【要目】
総トン数:3,270トン、積貨重量トン数:4,920トン
垂線間長:102.10m、型幅:13.10m、型深さ:7.28m
主機:パーソンズ式タービン機関×3、推進軸:3軸
出力:(最大)8.864馬力、速力:(最大)21.3ノット
旅客定員:(一等)47名、(二等)53名、(三等)268名
※引用:「船の科学 1981年7月号」1981年7月、船舶技術協会、P.47
帝国海事協会・貨客船「うめが香丸」
(「船の科学 1981年7月号」1981年7月、船舶技術協会、P.47)
「うめが香丸」は、帝国海事協会により発注されたもので、当時世界の艦艇に採用され始めた燃費は良くないものの高速を得ることができる直結タービン機関を装備し、速力は当時の主力である戦艦や装甲巡洋艦(18ノット前後)よりも高速の21ノットをたたき出します。
そして、傾斜した2本の煙突とマストはいかにも高速船といった姿をしています。
舷側には石炭庫を配置して装甲代わりとし、有事には15cm単装砲を前後に2門、ボートデッキに片舷3門ずつ計6門の8cm単装砲を装備できるよう砲座と補強材は当初から設置され、速やかに仮装巡洋艦へと変貌できるようになっていました。
まさに、「民間船舶」の皮をかぶった「艦艇」です。
なお、僚船「さくら丸」が船首が軍艦と同じような上部が前にせり出す「クリッパー型」を採用したのに対し、「うめが香丸」は垂直船首を採用しているところが大きな違いでした。
帝国海事協会・貨客船「さくら丸」
(「船の科学 1981年7月号」1981年7月、船舶技術協会、P.46)
竣工後の「うめが香丸」はしばらく運用先が決まりませんでしたが、明治43年2月に鉄道省が傭船し青函航路に投入、明治44年には関釜航路に転属します。
そして、大正元年9月23日に釜山からの福岡・門司に帰港し、関門海峡の大里沖に停泊中に防雨風雨に遭遇します。
このとき「うめが香丸」の船尾側倉庫の舷窓が解放されたままとなっており、船尾附近の舷窓から浸水が始まってしまいます。
水圧により倉庫の扉を開けない状態で徐々に浸水が進み、「うめが香丸」は傾斜していきます。
次の運航を前に乗員の大半が上陸していたことから対応できる要員も少なく、船体の傾斜を回復することは叶わずついには船体が横転、竣工から3年経たないうちに「うめが香丸」は沈没してしまいます。
大正元年12月より三菱重工神戸造船所により浮揚作業が始められ、翌2年3月には船体引き起こしに成功、同年5月には浮揚に成功し神戸へ曳航されます。
浮揚後の「うめが香丸」
(引用:「日本海軍仮装巡洋艦入門」石橋孝夫、2024年6月、潮書房光人新社、P.97)
しかし、「うめが香丸」は強風時には動揺が激しく乗客に不評で、タービン機関の燃費も悪く、商船としては大きな欠陥を持った「うめが香丸」へ多額の費用を投入して再生し、再利用しようという業者は現れず、そのまま解体され姿を消しました。
これに懲りたのか、「義勇艦」の第3船「さかき丸」は、経済性・安定性などの改善が行われ、南満洲鉄道に傭船され、第一次世界大戦では青島の戦いで通報艦として運用されています。
やはり、船舶と艦艇はその設計・建造は全く異なるもので、「さくら丸」「うめが香丸」は戦闘用艦艇をベースとして民間船舶を設計・建造したことが誤りだったということが、よくわかる結果といえるのではないかと思います。
この「さくら丸」「うめが香丸」の失敗が、優秀な民間船舶の設計に「武装」できる準備設計を盛り込むという逆の発想で帝国海軍艦艇の不足を補う「優秀船舶助成施設」という補助金制度につながります。
そして、日本郵船の「新田丸」級「橿原丸」級や大阪商船の「あるぜんちな丸」級などのように有事には航空母艦に改装可能な船舶が建造され、特設巡洋艦として運用された大阪商船の「報国丸」級などの優秀船が建造されていきます。
日本郵船・貨客船「橿原丸」(未成)を改装した航空母艦「隼鷹」
(引用:Wikipedia)
(U.S. Naval History and Heritage Command photo 80-G-701429, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=11082670による)
大阪商船・貨客船「あるぜんちな丸」を改装した航空母艦「海鷹」
(引用:Wikipedia)
(不明 - 呉市海事歴史科学館所蔵品, パブリック・ドメイン,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3647763による)
特設巡洋艦となった大阪商船・貨客船「報国丸」(引用:Wikipedia)
(日本海軍 - 潮書房 丸スペシャル No.53 『日本の小艦艇』10P, パブリック・ドメイン,
https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=6932461による)
民間船舶としては「失敗作」となってしまった「うめが香丸」。
竣工からわずか3年で荒天によりその短い生涯を閉じてしまいましたが、大東亜戦争前まで「有事の民間船舶の戦闘艦艇化」という思想はその後も受け継がれていきました。
過去にさかのぼると、古代から戦闘用の舟と民間用(荷物等の運搬用)の舟は密接な関係がありますし、いつの世も民間船舶を軍事転用は考えられていますから、昔から変わらない思想なんでしょう。
そして、今でも世界では民間船舶を改装し戦闘用艦艇として運用されている国もあります(満載排水量世界最大の空母は日本製?)。
今では、大砲と装甲が不要なミサイルとドローンの戦争となりつつあるので、民間船舶にミサイル発射装置やドローンの運用設備を増設することで「民間船舶の戦闘用艦艇化」ができることから、そのハードルが下がってきているように思えます。
実際にそんなことにならないよう、願うばかりです。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
帝国海事協会・貨客船「うめが香丸」
(「日本の客船1 1868-1945」野間恒/山田廸生、1991年7月、海人社、P.196)
【参考文献】
Wikipedia および
「船の科学 1981年7月号」1981年7月、船舶技術協会
※国会図書館デジタルコレクション 書誌ID:000000020893











