「龍」の名を持つ長寿の海軍徴傭船 | 艦艇・船舶つれづれ

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旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

新年、明けましておめでとうございます。

という所ですが、16時過ぎの能登半島地震の被害の大きさに驚いています。

大阪の私の住んでいる地域でも震度3で揺れました。

石川県、富山県は以前住んでいたこともあり、知っている場所がTVの映像で出てきています。

 

仕事上の知り合いも、少なからずいらっしゃるので心配ですが、今連絡を取るのは憚られるので、明日以降にしようと思います。

 

このブログでは、新年第1回は干支に関する船を取り上げていました。

本年は「辰年」=「龍」ですね。

 

「龍」の付く帝国海軍の艦艇は、航空母艦を中心に多数あります。

とくに有名なのが、ミッドウェー海戦で奮戦した航空母艦「飛龍」。

 

航空母艦「飛龍」(引用:Wikipedia)

(Japanese_aircraft_carrier_Hiryu_1939.jpg: 不明。derivative work: 0607crp (talk) - Japanese_aircraft_carrier_Hiryu_1939.jpg,

 パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=11082606による)

 

また、海上自衛隊の潜水艦には、「龍」の名が付く「そうりゅう」型潜水艦12隻があります。

 

海上自衛隊・「そうりゅう」型潜水艦「しょうりゅう」(引用:Wikipedia)

(Kaijō Jieitai (海上自衛隊 / Japan Maritime Self-Defense Force) - https://www.mod.go.jp/msdf/equipment/ships/ss/souryu/#509-3, CC 表示 4.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=84679379による)

 

ですが、マイナーな艦船を取り上げるのがこのブログ、今回も戦前から戦後にかけて稼働した非常にマイナーな船を取り上げます。

 

船名は「龍平(りゅうへい)丸」といい、大阪鉄工所桜島造船場で建造され、明治43年3月に進水し、同年8月に竣工した貨客船です。

【要目】

 総トン数:757トン、長さ:54.80m、幅:8.23m、深さ:5.70m 

 機関:三連成レシプロ機関×1、推進軸:1軸

 出力:64馬力、速力:(最高)10ノット、(航海)9.5ノット

 ※引用:HP「なつかしい日本の汽船」

 

明治末期の大阪鉄工所桜島造船場

(引用:「日本近世造船史(明治時代)」造船協会、1973年7月、原書房、P.791)

 

この「龍平丸」を所有したのは、田中末雄氏という個人名義になっています。この田中氏は鳥羽造船所の支配人を経て大連に田中商事を創立し、大阪に支店を設け沿岸航路を運営したほか、北清輪船公司の創立者でもあり、大連海運界に於ける重鎭でした。

このため、就役後の「龍平丸」は北清輪船公司で運行されています。

 

大正4年2月に、南満州鉄道の直径子会社として大連汽船が設立されると、北清輪船公司から「平順丸」「龍平丸」「利済丸」「龍昌丸」「弁天丸」の5隻が継承され、大連-天津間および大連-龍口(山東省・遼東半島の北岸)の渤海湾を縦断する2航路の運航を始めます。

 

昭和初期・氷結した龍口港

(引用:「北支那兵要地誌概説」参謀本部、1933年1月、P.47

 ※国会図書館デジタルコレクション 書誌ID:000007396737)

 

昭和7年3月になると満洲国が建国されると、大連汽船は優秀船を投入し大連-内地間の航路を増強し躍進していきますが、「龍平丸」は引き続き渤海湾で運用されます。

 

昭和16年12月8日、大東亜戦争開戦日に帝国海軍の地方徴用船(雑用船)として旅順方面特別根拠地隊に配属され、大連付近の哨戒任務に従事します。

昭和18年3月になると、旅順-鎮海-佐世保間の帝国海軍内部の定期船として、海軍軍人・軍属およびその家族等、また貨物の輸送に使用されるようになります。

 

雑役船「龍平」として書物に掲載された図

(引用:「JAPANESE NAVAL VESSELS AT THE END OF WAR」1947年4月、第二復員局、P.186-2)

 

「龍平丸」は大東亜戦争を生き抜き、戦後は佐世保地方復員所に所属し復員輸送に従事します。

昭和22年3月には大連汽船の東京支社を中心として東邦海運が設立されると、昭和24年9月に「龍平丸」も東邦海運に移籍されます。

そして同年10月、39年前に「龍平丸」が建造された大阪鉄工所桜島造船場の後身である日立造船桜島造船所で貨物船に改装されます。
この時、総トン数742トン、長さは2mほど短くなり、前後に1個所ずつ船倉を有した乗組員13名、速力8ノットの貨物船として生まれ変わったものの、3名分の客室を残していました。

 

貨物船「龍平丸」は、東邦海運の民営化第1船として運行され、昭和24年10月から翌25年4月までの間に九州から関西へ石炭を運送し、500万円の運賃収入を得て東邦海運の収益に大きく貢献しました。

 

その後も稼働率77%と活躍を続けていた「龍平丸」ですが、さすがに老巧化には勝てず、就役から41年11カ月を経た昭和27年2月、解体のため横浜市の春日海事工業に売却され、後に解体され姿を消しました。

 

戦後・SCJAP No.「R008」が船体に記載された「龍平丸」

(引用:HP「なつかしい日本の汽船」)

 

関東州から北支方面の輸送という大東亜戦争改選前の国際舞台に就き、大東亜戦争では帝国海軍の下で大陸と本土の間を結ぶ地味ながら重要な役割を担い、戦後は復員輸送そして新生なった東邦汽船の発足時を支えるという大きな働きをした、小さいながらもその貢献は大きなものがありました。

 

明治・大正・昭和の3つの時代を生き抜き、表舞台ではないものの懸命に働き抜いた「龍平丸」、新年に際して長寿を全うした「龍」の付く船を取り上げてみました。

 

私は、尼崎の会社の寮で阪神大震災を経験し、職場のあった明石市、出張所のあった神戸市・西宮市などで、その被害状況をこの目で見てきました。

また、地震発生当日の夜は、度重なる余震で倒れそうな西宮の出張所で一晩待機していました。

その経験から、今回の能登半島地震も人事には思えません。

今後、微々たるものかもしれませんが、できることをしていこうと思います。

 

【参考文献】

  Wikipedia および

 

 

 

 

 

 

 

 「東邦海運株式会社十五年史」、1962年8月、東邦海運社史編纂委員

  ※国会図書館デジタルコレクション 書誌ID:000001041455

 「北支那兵要地誌概説」参謀本部、1933年1月

  ※国会図書館デジタルコレクション 書誌ID:000007396737

 「関西大学文学論集 第72 巻第3 号」2022年12月、関西大学文学会

  (1933年当初の大連発着定期航路/松浦章 ※NDL書誌ID:032593074)

 

【Web】

 HP「大日本帝国海軍 特設艦船DATABASE」戸田S.源五郎氏

 

 HP「なつかしい日本の汽船」