昭和18年9月・台風に敗れた特設運送船「極洋丸」 | 艦艇・船舶つれづれ

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先日から、先島諸島・沖縄方面で猛威を振るっている「台風11号」。

小笠原から西進し、台湾の東の海域まで進んだ後に北進するという迷走ぶりで、本日(9月3日)13時時点で中心気圧955hPa、石垣島の南南東約120kmに位置し、ゆっくりと北へ進んでいます。

 

令和4年9月3日・13時時点の台風進路予測(引用:HP「気象庁 台風情報」)

 

今後、日本海方面へ向かう予測となっているため、被害が心配されます。

 

昭和18年9月にも大型の台風が日本列島を襲っています。この台風により失われた大型船がありました。その船は極洋捕鯨の捕鯨母船「極洋丸」と言います。

 

「極洋丸」は、昭和12年9月に設立された極洋捕鯨が、南氷洋捕鯨のために計画した捕鯨母船で、川崎造船所により昭和13年1月に起工され、同年6月に進水、10月には竣工というハイスピードで建造されました。

【要目】

 総トン数:17,548トン、満載排水量:32,960トン、

 載貨重量:21,957トン、垂線間長:163.31m、型幅:22.56m、

 型深:14.86m、満載吃水:10.52m 

 機関:川崎MAN式ディーゼル機関×1、推進軸:1軸

 出力(連続最大):7,624PS、(計画)6,000PS、

 最高速力:15.06ノット、航海速力:10.5ノット

 客室定員:(一等)6名、乗組員数:91名、捕鯨作業員:290名

 ※引用:「船の科学」Vol40・No9、1987年9月、船舶技術協会、P.16

 

極洋捕鯨・捕鯨母船「極洋丸」

(引用:「船の科学」Vol40・No9、1987年9月、船舶技術協会、P.16)

 

「極洋丸」は、船尾に緩やかなスキッドウェーを持ち鯨を船内に引き揚げ、広大な上甲板で鯨を解体することができるようになっていました。

 

竣工早々の昭和13年11月には、早くもキャッチャーボート9隻を伴って南氷洋に進出、翌年4月まで初の鯨漁に就いています。

捕鯨が休漁となる夏場には油槽船として北米からの石油輸送を行い、昭和14年・15年の冬には南氷洋での鯨漁を行いました。

 

捕鯨母船として活躍する「極洋丸」

(引用:「船舶百年史 前篇」上野喜一郎、1957年9月、船舶百年史刊行会、P.190)

 

国際情勢が緊迫化を増した昭和16年11月に「極洋丸」は徴傭され、一般徴傭船(給油船)として帝国海軍横須賀鎮守府の所管となり、大東亜戦争開戦時には、神奈川・久里浜から台湾に向かっており、馬公・高雄を経て翌17年1月初に横須賀へ帰投しています。

 

その後も軍需品輸送のため、台湾、ペナン(現・マレーシア)、ラバウル、トラック諸島等の南方と内地の間を往復しています。

昭和18年7月11日には三重・四日市から神戸へ向かう途中に米海軍潜水艦の雷撃を受け左舷後部に魚雷1本を受けますが、幸い不発で難を免れています。

 

昭和18年9月には帝国海軍の特設運送船(給油船)に編入され、9月13日には佐世保へ到着、航空機14機、雑貨物18トン、便乗者339名を搭載し、翌14日に9隻の船団を組んで昭南(現・シンガポール)に向けて出港しまが、大型台風の接近のため、9月18日に奄美大島の名瀬湾で投錨します。

 

そして、台風の暴風と波浪により9月19日の23時48分に名瀬湾大熊港湾岸の山羊島より80度20分の地点で座礁してしまいます。

この座礁により船底全長に恒る損傷を受け、機関室も進水するなど大破してしまいます。

自力による浮揚を断念した「極洋丸」は、昭和18年9月28日に船体の放棄が決定し全損となりました。

昭和21年4月19日に米軍によって撮影された空中写真には、座礁・放棄された「極洋丸」の船体が写ってます。

 

戦後・座礁放棄された「極洋丸」(赤丸内)の船体が写った写真

 (引用:国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」USA-M57-115:一部拡大)

 

なお、この時の台風は「昭和18年台風第26号」と呼ばれており、昭和18年9月14日正午頃にサイパン島の東で発生します。

当初台風は西北西に進んだが、沖縄の南方で北北東に進路を変え、発達しながら南西諸島に沿って北上し、20日正午頃に高知県宿毛付近に上陸。四国・中国地方を横断して鳥取付近から日本海に抜け、衰弱しながら北東に抜ける経路で進みました。

 

日本に接近した「昭和18年台風第26号」の天気図

(引用:HP「(一社)中国建設弘済会 昭和18年9月台風」)

 

この台風で、現在の島根県浜田市、大分県大分市・臼杵市、宮崎県北部に当たる地域などで大きな被害が出ており、被災地全体の被害は、死者・行方不明者970人、負傷者491人という大災害になりました。。

物的被害も住家全壊6574戸、住家半壊1万1878戸、住家流失3135戸、住家浸水7万6323戸、道路の決壊が9938か所、堤防の決壊3250か所、田畑の流失及び浸水が1225㎢、船舶の流失・沈没・破損は830隻に及んだとされています。

 

島根県邇摩郡大国村(現、大田市仁摩町大国の河川氾濫の跡

(引用:HP「(一社)中国建設弘済会 昭和18年9月台風」)

 

また、極洋捕鯨は昭和46年に社名を極洋に変更し、昭和51年には捕鯨部門を日本共同捕鯨に譲渡、現在では水産品の買い付け、加工、鰹・鮪の漁撈を主とした会社となっています。

 

令和4年の大型台風である11号は、週明けから九州西岸を北上し日本海方面へ向かうようですが、大きな被害が出なければよいと願います。

 

【参考文献】

 Wikipedia および

 「船の科学」Vol40・No9、1987年9月、船舶技術協会

 

 

 

【Web】

 HP「国土地理院 地図・空中写真閲覧サービス」

 

 HP「(一社)中国建設弘済会」