先日行った呉で、一番印象に残ったのは「入船山公園」の「旧鎮守府司令長官官舎」でした。
呉鎮守府は明治22年7月に開庁し、昭和20年8月の終戦まで呉における艦隊の後方を統括した機関で、二海軍区(範囲「紀伊国(和歌山県)南牟婁郡界ヨリ石見(島根県)長門国(山口県)界ニ至リ筑前(福岡県)遠賀宗像郡ヨリ九州東海岸ニ沿ヒ日向(宮崎県)大隅国(鹿児島県)界ニ至ルノ海岸海面及四国ノ海面並内海」)を所管していました。
旧呉鎮守府庁舎(引用:Wikipedia)
(Taka Hiro - http://www.taka.nu/allex/etc/200702kuresoukanbu.html, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3466316による)
呉鎮守府の最高指揮官が呉鎮守府司令長官で、33代にわたり引き継がれています。
中には、第21代内閣総理大臣の加藤友三郎、第42代内閣総理大臣の鈴木貫太郎、海軍大臣となった嶋田繁太郎、連合艦隊司令長官となった豊田 副武など、錚々たる顔ぶれが並んでいます。
この司令長官の宿舎として、明治22年に建造されたのが「旧鎮守府司令長官官舎」で、現存する建物は明治38年6が月の芸予地震により倒壊しし再建されたものです。
旧鎮守府司令長官官舎
この建物は、正面が洋館、裏側が和館の建築となっており、独特の様式の建物となっており、洋館部が公的な空間、和館部がプライベートな空間となっています。
洋館部分の応接室
洋館部分の客室
洋館部分の食堂
和館部分の座敷
和館部分の茶室
裏庭
建物は木に囲まれた丘の途中にあることから、静かで空気の流れがゆったりとした空間でした。
写真は撮り忘れたのですが、エントランスには第30代司令長官・南雲忠一中将の家族写真が掲示されていました。
南雲忠一氏は、大東亜戦争緒戦期において第一航空艦隊司令長官として真珠湾攻撃を成功させ、この時の航空艦隊は「南雲機動部隊」と呼ばれました。有名なので御存知の方も多いのでは。
南雲忠一海軍中将(引用:Wikipedia)
(パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=43777)
南雲氏は艦隊派(軍縮条約反対派)の論客として知られ、駆逐艦で魚雷戦を行う「水雷屋」として知られていました。
ところが、昭和16年4月に畑違いの第一航空艦隊司令長官に抜擢され、草鹿参謀長・源田航空参謀を擁して真珠湾攻撃を指揮し成功させます。その後もニューギニア、オーストラリア、インド洋を転戦し快進撃を続けます。
そして、昭和17年6月・運命のミッドウェー海戦で第一航空艦隊は虎の子の航空母艦「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻を失う大敗北を喫します。
ミッドウェー海戦で爆撃を受け回避行動中の航空母艦「赤城」
(不明 - U.S. Army Air Forces photo USAF-57576, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=392795による)
ミッドウェー海戦では、第一次攻撃隊のミッドウェー島爆撃が不十分であるとされたことから、第二次攻撃隊は航空母艦上で爆弾を装備し発艦準備をしていました。
そこに敵航空母艦発見の報が入ります。
「飛龍」艦長の山口多門少将は「陸用爆弾のままですぐに攻撃隊を発進させるよう」南雲長官に進言しますが、南雲長官は却下し爆装を雷装に変更させます。
この判断が致命的だったという説があります。それでも水雷屋である南雲長官としては、敵航空母艦への攻撃は魚雷で、と考えたとしても不自然ではないと思います。
その後、航空母艦「翔鶴」「瑞鶴」を擁する第三艦隊の司令長官となり、南太平洋海戦を戦います。
昭和17年11月に前任者の病死により陸に上がって佐世保鎮守府司令長官に就任し、さらに昭和18年6月には呉鎮守府司令長官に就任します。旧鎮守府司令長官官舎のエントランスに飾られている写真は、この時期に撮影されたものでした。
南雲氏は昭和18年10月に第一艦隊司令長官となり海に戻りますが、昭和19年2月に第一艦隊が解隊されたことから、中部太平洋方面艦隊司令長官兼第十四航空艦隊司令長官としてサイパンに向かうこととなります。
南雲司令長官とサイパン島守備隊幹部の集合写真(引用:Wikipedia)
(Imperial Japanese Navy - Kodansha, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=9417006による)
昭和19年6月15日にサイパンへ米軍が上陸すると、南雲長官は迎撃戦闘の指揮にあたりますが、強大な敵に圧倒されていきます。
昭和19年7月5日、南雲長官は陸海の両総長のサイパン放棄の電文を受け、約20日間の抗戦の末、サイパン島守備軍は玉砕し南雲長官も自決し生涯を閉じます。
なぜ、今回南雲長官を取り上げたのか。エントランスの写真の影響があったかもしれません。
長官官舎の洋館・ホールのような所に椅子がありました。
この椅子を見たとき、椅子に深く腰掛けた南雲長官がこちらを向いて優し気に微笑む姿が、唐突に頭に浮かびました。
当時の南雲長官は、機動部隊による激戦の日々から離れ、陸に上がり家族に合う事もできた平和な時期、一息ついたような時期ではなかったかと思います。
そのためか、南雲長官の写真は厳しい顔のものが多いですが、私の頭に浮かんだ南雲長官は本当に優しい顔でした。
南雲忠一海軍中将(引用:Wikipedia)
(https://books.google.com/books?id=iFhB7fDrnTsC&pg=PA4&lpg=PA4&dq=sentaro+omori&source=web&ots=oBM05O3C-j&sig=U6q-Ikv8Sj2uk7oE0Fki9b7DWtI#PPA2,M1en.wikipedia からコモンズに BanyanTree によって CommonsHelper を用いて移動されました。, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=4446052による)
何か不思議な気持ちになりながら、長官官舎を見て回りました。このことで、今回の呉訪問では「入船山記念館」の旧鎮守府司令長官官舎が一番印象に残りました。
入船山記念館・門柱