大東亜戦争の縮図のような航空母艦「雲龍」の生涯 | 艦艇・船舶つれづれ

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旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

今回は航空母艦を取り上げます。

航空母艦として建造されたものの、機動部隊として活用されずに戦没した「雲龍」を取り上げます。

 

帝国海軍は、昭和15年11月に出師準備作業(通称マル臨計画)の第一着作業を発令しますが、国際情勢の緊迫化により対米開戦の軍戦備のさらなる充実の推進が必要となります。

このため、昭和16年8月に出師準備作業の第二着作業の一部を発動し、さらにマル急計画が策定され実行に移されます。

ちなみに、このマル急計画で建造された艦艇には、「択捉」型、「御蔵」型、「日振」型の海防艦などがあります。

 

「御蔵」型海防艦「能美」(引用:Wikipedia)

(unknown (不明) - 写真日本の軍艦第7巻p206, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5497827による)

 

このマル急計画により建造に移されたのが「雲龍」で、仮称艦名を「第302号艦」とされ昭和17年8月に横須賀海軍工廠で起工されます。

【要目(竣工時の「雲龍」)】

 基準排水量:17,150トン、全長227.35m、最大幅:22.0m、平均吃水:7.76m

 機関:艦本式オール・ギヤード・タービン×4、缶:ロ号艦本式水管缶(重油専焼)×8、推進軸:4軸

 出力:152,000馬力、速力:34.0ノット、乗員:1,100名

 兵装:12.7cm40口径連装高角砲×6、25mm3連装機銃×21、25mm単装機銃×30、

     12cm28連装噴進砲×6

 搭載機:常用57機、補用8機

 ※出典:世界の艦船「日本航空母艦史」増刊第40集、No.481、1994年5月、海人社、P.66

 

航空母艦「雲龍」(引用:Wikipedia)

(不明 - Yamato Museum collection (呉市海事歴史科学館所蔵品), パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3579931による)

 

「雲龍」型航空母艦は工事を急ぐために新規設計を行う時間的な余裕がなく、中型空母としては理想的だった「飛龍」の図面を基にしていますが、艦橋の位置を左舷から右舷へ、舵を「蒼龍」と同じ吊下式二枚舵へ、中央昇降機を廃止するなどの変更がなされています。

 

「雲龍」は昭和19年8月に竣工し、同型艦「天城」とともに第一航空戦隊に編入されます。

しかし、搭乗予定の第六〇一海軍航空隊は昭和19年6月のマリアナ沖海戦で損害を受け、再建に向けた訓練中の状態でした。

さらに、訓練中の艦上攻撃機隊は台湾沖航空戦に投入され、残りの航空隊もレイテ沖海戦に参加した航空母艦「瑞鶴」などに振り分けられたことから、「雲龍」が搭載する航空隊が整備されることはありませんでした。

 

昭和19年8月上旬に米海軍機動部隊により硫黄島および小笠原諸島が空襲を受けると、帝国海軍は「雲龍」を基幹とする急襲部隊を編制し東京湾で訓練を行います。

この訓練で、新型の艦上攻撃機「流星」のロケット発艦実験を行っています。これは「雲龍」から飛行機が発艦した唯一の機会であるとされています。

 

帝国海軍・艦上攻撃機「流星」(引用:Wikipedia)

(不明 - en:Image:Aichi B7A Ryusei.jpg from www.ijnafpics.com, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=974578による)

 

しかし、この作戦は発動されることは無く、「雲龍」は出撃機会がないまま昭和19年9月下旬に呉に回航され、10月のレイテ沖海戦にも参加することはありませんでした。

 

昭和19年の年末に向けてフィリピン方面の戦局が悪化する中、「雲龍」はフィリピンへ特攻兵器「桜花」を輸送する任務に当たることになります。

 

靖国神社・遊就館に展示されている特殊攻撃機「桜花」一一型のレプリカ

 

呉で整備された「雲龍」は、「桜花」20機、大発、各種車輌約60台、爆弾・陸戦兵器など軍需品合計約1,500トン、帝国陸軍の軍用グライダー「四式特殊輸送機(クハ)」および帝国陸軍空挺隊800名を含めた便乗者1,500名を積載し、一等駆逐艦「時雨」「楢」「樅」に護衛され、昭和19年12月17日にフィリピン・マニラに向け呉を出撃します。

 

帝国陸軍・「四式特殊輸送機(クハ)」(引用:Wikipedia)

(Japanese Imperial Army - http://www.aviastar.org/air/japan/kokusai_ku-8.php, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=8531545による)

 

一等駆逐艦「時雨」(引用:Wikipedia)

(不明 - 写真日本の軍艦第11巻p40, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5720954による)

 

昭和19年12月19日の16時以降に、米海軍潜水艦「レッドフィッシュ」は済州島南方海域で「雲龍」を中心とする船団を発見し、魚雷4本を発射します。「雲龍」は魚雷3本を回避しますが、残りの1本が右舷中央部に命中し、第一缶室・第二缶室に浸水します。

 

米海軍潜水艦「レッドフィッシュ(SS-395)」(引用:Wikipedia)

(http://www.navsource.org/archives/08/0839514.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2139092による)

 

「雲龍」は高角砲と機銃で応戦しますが、電源が停止し射撃不能になります。また、機械室で火災が発生します。

しばらくして火災は消し止められますが、速度が次第に低下していき航行不能となります。

この時「雲龍」への接近を続けていた「レッドフィッシュ」は、さらに5本の魚雷を発射します。うち1本が「雲龍」の右舷前部に命中し下部格納庫で炸裂します。

この下部格納庫には「桜花」20機があり、次々と誘爆してしまいます(一説には爆発は12.7cm高角砲弾薬庫で起ったとも言われています)。

 

「雲龍」は前のめりとなって艦首から沈みはじめ、16時57分には海上に突出していた艦尾が水面下に没して姿を消します。

この時の「雲龍」の姿は、「レッドフィッシュ」の潜望鏡からの写真で残されています。

 

 

「雲龍」の沈没による犠牲者は推定1,241名(乗組員)に達し、乗組員生存者89名、便乗者は約1,500名のうち生存者57名と記録されています。中でも帝国陸軍の滑空歩兵第一聯隊主力のほとんどが犠牲となり、第一挺身通信隊は分隊135名のうち生存者が1名のみという状況で、帝国海軍の航空母艦の中で最大の犠牲者を出しています。

 

また、「雲龍」は戦時中の建造で、竣工から4か月余りで沈没しているため写真が非常に少なく、今回掲載しているWikipediaのものと「レッドフィッシュ」の潜望鏡のもの以外は見つかりませんでした。

 

大東亜戦争開戦直前に計画され、戦時中に期待を持って建造された航空母艦にも拘わらず、その竣工は戦局挽回に寄与するには遅きに失し、戦闘に参加することなく多数の乗組員・便乗者と共に戦没した「雲龍」の生涯は、大東亜戦争の縮図のような気がします。

 

【参考文献】

Wikipedia および

 

 

 

【Web】

「第二次世界大戦データベース」HP(英文)