今回は、戦利艦について取りあけてみます。
帝国海軍では、日清戦争および日露戦争において、敵国の艦艇を捕獲し戦利艦艇として帝国海軍籍に編入し、実際に戦力化しています。
その中でも有名なのが、日清戦争での戦利艦「鎮遠」です。
当時の清国海軍の主力艦で、明治27年9月17日の黄海海戦で大火災を起こしたものの、清国海軍・北洋艦隊の基地である威海衛へ帰還しますが、12月24日に威海衛沖で座礁してしまいます。
明治28年2月5月14日には威海衛の北洋水師の降服に合意し、17日には威海衛に在泊していた艦艇は帝国海軍に捕獲されます。
この時、「鎮遠」も帝国海軍の手に渡り、明治31年には二等戦艦へ編入され日露戦争に参加します。
二等戦艦「鎮遠」(引用:Wikipedia)
(不明 - http://www.beiyang.org/bybq/zheny.htm, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=10073662による)
この「鎮遠」とともに多数の艦艇が帝国海軍の手に渡りますが、その中でも同型または準同型の小型砲艦6隻が含まれていました。
これらの砲艦は、英国・アームストロング社のエルジック工場で建造され、明治12年から14年にかけて竣工した一連の小型砲艦でした。
うち、「鎮東」「鎮西」「鎮南」「鎮北」が同型艦で、「鎮中」「鎮辺」が一部改正した準同型艦でした。また、「鎮辺」には「海鏡清」という同型艦もありました。
これらの艦は発注時にギリシャ文字のアルファベットでε・ζ・η・θ・ι・κの呼称で発注されたため、「鎮東」型が「イプシロン」型、「鎮中」型が「イオタ」型と呼ばれることもあります。
これらの艦は「鎮遠」と同日の明治28年2月17日に帝国海軍に無傷の状態で捕獲され、3月16日に帝国海軍の艦籍に編入されます。なお、艦名は清国時代の漢字をそのまま使用し、日本語読みに変更しています。
帝国海軍ではこれらの艦を一括して「鎮型」と呼んでいました。
【要目(編入当時)】
常備排水量:420トン(「鎮辺」「鎮中」は440トン)、
垂線間長:38.28m、最大幅:8.84m、吃水:2.82m(「鎮辺」「鎮中」は3.00m)
機関:斜動式2段膨張レシプロ蒸気機関×2、主缶:円缶(石炭混焼)×不明、推進軸:2軸
出力:350馬力、速力:10.0ノット、乗員数(竣工時):37名
兵装:28cm23口径安式単装砲(前装)×1、12斤安式単装砲×2(推定)
※出典:世界の艦船「日本海軍特務艦船史」増刊第47集、No.522、1997年3月、海人社、P.93
二等砲艦「鎮東」(引用:Wikipedia)
(不明 - 日本海軍艦艇写真集 航空母艦p185, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5652657による)
雑役船に編入後の「鎮西」(引用:Wikipedia)
(unknown, maybe the Imperial Japanese Navy. - 呉市海事歴史科学館編『日本海軍艦艇写真集 航空母艦・水上機母艦』ダイヤモンド社、2005年、185頁。 ISBN 4-478-95056-3, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7617237による)
二等砲艦「鎮北」(引用:Wikipedia)
(光村利藻 - 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。上巻439頁, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7617174による)
二等砲艦「鎮辺」(引用:Wikipedia)
(unknown, maybe the Imperial Japanese Navy. - 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。上巻439頁, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7617208による)
二等砲艦「鎮中」(引用:Wikipedia)
(unknown, maybe the Imperial Japanese Navy. - 福井静夫『写真 日本海軍全艦艇史』ベストセラーズ、1994年。上巻439頁, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=7617253による)
これらの1本の高い煙突と1門の大口径砲を持ち、小型・低乾舷の特徴的な艦型であり「レンデル式砲艦」とも呼ばれます。
「鎮型」も28cmという大型の砲を搭載していますが、旋回できないことから艦首方向にしか志向できず、実戦に使用するには無理がありました。
また、艦の前後に推進器があり、主砲の発砲時には反動で艦が停止するなど、極めて特殊な艦であったことから、編入後は内地における警備や練習任務に就くことになりました。
このうち「鎮辺」「鎮中」は、明治30年の義和団の乱に際して常備艦隊に編入され、清国太沾に派遣されています。
また、明治31年3月の類別標準制定により「鎮型」は二等砲艦に類別されました。
これらの砲艦は、編入時にはすでに旧式の艦であり、老朽化により明治36年8月には揃って雑役船に編入されます。
その後、「鎮東」」は明治39年8月に売却されます。
「鎮西」は明治41年5月23日文部省に移管され、島根県立隠岐商船学校(現・島根県立隠岐水産高等学校)の練習船となります。
「鎮南」は雑役船として佐世保海兵団で使用後、大正2年に売却されています。
「鎮北」と「鎮中」は水雷標的として呉水雷団で使用後、明治42年に売却されています。
「鎮辺」は明治39年7月に司法省に移管されて監獄局の練習船「鎮辺号」となり、兵庫県の洲本育成学舎で明治44年3月まで使用され、その後公売に付されたようです。
近代軍艦の発達過程における「珍艦」とも言える一風変わった艦として、帝国海軍の艦艇の一ページに記録された艦である「鎮型」について、取り上げてみました。
【参考文献】
Wikipedia および