波乱万丈な生涯を送った一等巡洋艦「日進」 | 艦艇・船舶つれづれ

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「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

先日、あるブロ友さんが「極秘 日露海戦写真帖」なる書籍を購入されたとブログに書かれていました。

どうも、日露戦争の海戦前後の写真が多数乗っているに違いない。これは、見てみたい。しかし、近隣の図書館で所蔵しているのは堺市の中央図書館のみ。

という事で、私も買ってしまいました。もちろん新品ではなく古書です。

底本「極秘 明治三十七八年戦史附録写真帖」は防衛庁防衛研究所図書館所蔵の資料のようです。

 

 

先ほど届きましたので、ペラペラめくってみました。500ページ近くある、なかなか分厚い写真集です。

黄海海戦や日本海海戦の後、艦艇の損傷箇所を記録した写真が数多くあります。激しい戦闘を繰り広げた生々しいものです。

 

ところで、この中で目に付いたのは、艦艇の主砲・副砲などの損傷が多いことです。

一等戦艦「三笠」:後部主砲右側(1門)

一等戦艦「敷島」:前部主砲右側(1門)

一等巡洋艦「日進」:前部主砲(2門とも)、後部主砲左側(1門)

一等巡洋艦「吾妻」:右舷後部上甲板副砲(7番砲・8番砲の2門)、後部主砲右側(1門)

一等巡洋艦「常磐」:主砲1門

二等巡洋艦「千歳」:主砲1門

三等巡洋艦「和泉」:主砲1門

 

それぞれ、砲身が折れたもの、砲身が破裂したように割れたもの、砲身の曲がったものなどがありますが、膅内爆発(砲身の中で砲弾が爆発する事故)のような状態のものもあります。

 

日本海海戦で砲身の折れた一等巡洋艦「日進」の前部主砲塔(引用:Wikipedia)

(不明 - Agawa, Hiroyuki, The Reluctant Admiral, Kodansha International, Tokyo, 1979, p. 204., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5071845による)

 

黄海海戦で後部主砲の砲身が切断した戦艦「三笠」

(引用:「」中川務・阿部安雄、2010年10月、P.27)

 

この中でも、一等巡洋艦「日進」は、かなりの損傷を受けているようです。

この一等巡洋艦「日進」は、明治35年3月にイタリアのアンサルド社で起工された、アルゼンチン海軍の装甲巡洋艦「モレノ」でした。

この「モレノ」を日露戦争開戦直前に、帝国海軍が英国の仲介によりアルゼンチン海軍から買い取り、明治37年1月に竣工し「日進」と命名されます。

「日進」は同型艦で同じ経過を辿って帝国海軍の巡洋艦となった「春日」とともに、日本に回航されます。

その際、開戦となれば速やかに攻撃するために追尾してきたロシア艦隊に対し、回航を請け負ったアームストロング社員を護衛する名目で、当時の友好国である英国艦隊の支援を受けています。

【要目】

 常備排水量:7,700トン、垂線間長:104.9m、最大幅:18.7m、吃水:7.3m

 機関:直立式3気筒三連成レシプロ蒸気機械×2、推進軸:2軸、主缶:円缶(石炭専焼)×8

 出力:13,500馬力、速力:20.0ノット、乗員数:568名

 兵装:20cm40口径連装砲×2、15cm40口径単装砲×14、8cm40口径単装砲×8、47mm単装砲×6

     45cm水中魚雷発射管×4

 ※引用:世界の艦船「日本巡洋艦史」増刊第32集、No.441、1991年9月、海人社、P.32

 

一等巡洋艦「日進」(引用:Wikipedia)

(不明 - Imperial War Museum, London, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2188812による)

 

「日進」は回航後に第三艦隊に所属していましたが、旅順港の封鎖中に触雷により戦艦「八島」「初瀬」の2隻が沈没した後は、その代わりとして同型艦「春日」とともに第一艦隊第一戦隊に編入され、黄海海戦や日本海海戦では、戦艦部隊の一翼を担いました。

 

日本海海戦では、「日進」は第一戦隊の最後尾に配置され、一斉回頭により先頭を進む場面もあったことから、旗艦「三笠」に次ぐ多数の敵弾を浴び、艦の指揮系統を含めて多数の戦傷者を出しています。

また、少尉候補生として乗り込んだ山本五十六も海戦中に砲身爆発により重傷を負っています。

この激戦の中で、「日進」は主砲4門のうち3門を失っています。

 

日本海海戦後・整備を受けた一等巡洋艦「日進」

(引用;「海軍艦艇史2 巡洋艦」福井静夫、1980年6月、KKベストセラーズ、P.193)

 

日露戦争後も、「日進」は主力艦の一角を担いますが、大正元年11月18日に演習および観艦式からの帰路の途中で寄港していた静岡・清水港で後部20cm砲塔付近の火薬庫で爆発が発生します。

「日進」は損傷したものの航行も可能であったため、横須賀に回航され事故調査が行われた結果、一度は火薬の自然発火であるとの結論が出されます。

しかし、翌2年8月に殺人事件を起こした予備役二等兵曹が、「日進」の火薬庫を爆発させたと告白したことから真相が判明、この犯人はその後死刑となり執行されています。

 

大正3年には主缶の損耗が激しかったことから、それまでの円缶8基を艦本缶12基に換装し、煙突の形状も変化しています。

また、同じ大正3年には第一次世界大戦に伴い北太平洋、ボルネオ、シンガポールなど、南太平洋の警備を行い、大正6年4月にはオーストラリア、インド洋まで足を伸ばして船団護衛を行っています。

さらに、大正7年には欧州・地中海へ進出し、マルタ基地から地中海船団を護衛した後、戦利艦として日本に回航される旧ドイツ海軍の潜水艦を護衛しています。

 

マルタ島での一等巡洋艦「日進」(引用:Wikipedia)

(オリジナルのアップロード者は英語版ウィキペディアのPHGさん - en.wikipedia からコモンズに移動されました。, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=2809626による)

 

大正10年9月に一等海防艦へ類別変更され、翌11年4月にはシベリア出兵に伴い沿海州方面で警備行動を行っています。

その後、「日進」は機関を損傷したようで、大正12年の関東大震災の救援、翌13年の沿海州方面への警備行動および観艦式へ参加した後は、横須賀海兵団の新兵練習用として係留状態で使用されます。

 

昭和10年4月に除籍され、廃艦第6号と仮称されます。同年10月には呉に回航され、亀ヶ首発射実験場で戦艦「大和」型へ搭載を予定していた46cm砲の砲弾実験に使用され、艦尾に命中した砲弾により生じた進水が止まらず、転覆・沈没してしまいます。

 

呉・亀ヶ首発射実験場で射撃試験前の「廃艦第6号」

(引用;「海軍艦艇史2 巡洋艦」福井静夫、1980年6月、KKベストセラーズ、P.198)

 

その後、深田海事工業(現・深田サルベージ工業)により転覆したままの状態で浮揚され、浅瀬に座礁処置されたのち解体されました。

 

アルゼンチンの軍艦としてイタリアで起工され、帝国海軍が購入し戦艦の代わりとして日露戦争を戦い、火薬庫が人為的に爆破され、第一次世界大戦では南太平洋からインド洋、さらには地中海まで足を伸ばし、最後は新鋭戦艦「大和」の主砲建造のための実験台となる、波乱万丈の生涯を送った艦ですね。

 

最後に、冒頭の「極秘 日露海戦写真帖」から1枚の写真を。

「日進」の損傷具合が分かる写真です。

(引用:「極秘 日露海戦写真帖」戸高一成、2004年3月、柏書房、P261)

 

【参考文献】

 

 

 

 
 

※参考としたのは、旧版です。