遠く大西洋に眠る「伊号第五十二」潜水艦 | 艦艇・船舶つれづれ

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「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

13日の金曜日の夕方、吹田で打ち合わせをした帰り、グランフロント大阪の北館と南館の間のデッキでスマホを掲げる人が数人いました。

見ると、日没後の空にライトアップされた木々と高層ビルの明かりが映えていました。

 

 

風よけのガラス越しなので、背景のヨドバシの明かりが写り込んでいます。

 

グランフロントの北館では、クリスマスツリーが登場しています。今回は気球のイメージのようです。

 

 

話は変わって、今回は前回に引き続き「潜水艦」を取り上げてみます。

前回の「伊号百二十四」潜水艦はオーストラリアに眠っていますが、さらに遠い所で眠っている潜水艦があります。

今回の主役である「伊号第五十二」潜水艦は「遣独潜水艦作戦」でドイツへ向かっていました。

 

「伊号第五十二」潜水艦は、昭和16年に決定されたマル追計画により建造された丙型潜水艦で、昭和17年3月に呉海軍工廠で起工され、昭和18年12月に竣工しています。

【要目】

 排水量:(水上)2,095トン、(水中)2,644トン、全長:108.70m、最大幅:9.30m、吃水:5.12m

 機関:艦本式22号10型ディーゼル機関×2、推進軸:2軸

 出力:(水上)4,700馬力、(水中)1,200馬力、速力:(水上)17.7ノット、(水中)6.5ノット、乗員数:94名

 兵装:14cm40口径単装砲×2、25mm連装機銃×1、53cm魚雷発射管×6

 ※引用:世界の艦船「日本潜水艦史」増刊第37集、No.469、1993年8月、海人社、P.72

 

「伊号第五十二」型(丙型改)の「伊号第五十三」潜水艦

 (引用:世界の艦船「日本潜水艦史」増刊第37集、No.469、1993年8月、海人社、P.72)

 

「伊号第五十二」潜水艦は「丙型改」のネームシップで、同型艦は3隻あります。「丙型」潜水艦は航空機を搭載しない代わりに雷装を強化した位置付けの潜水艦でしたが、「丙型改」潜水艦は、航空機を搭載する「乙型」から航空兵装を撤去したのみの設計で、雷装もそれまでの「丙型」が8門であるのに対し、「乙型」と同じ発射管が6門のみとなっています。

 

竣工後の「伊号第五十二」は呉鎮守府籍となり、訓練部隊の第六艦隊第11潜水戦隊に編入されて訓練に当たり、昭和19年3月10日に第8潜水隊に編入、そして同日に第5次訪独潜水艦として呉を出港します。

 

「伊号第五十二」は、「伊号第八」潜水艦が第二次遣独潜水艦として持ち帰ったドイツ製工業製品の製造技術取得とその対価に当たる金塊2トン、当時ドイツで不足していたスズ・モリブデン・タングステンなど計228トンの輸送を目的としていました。

 

「伊号第八」潜水艦(引用:Wikipedia)

(N. Polmar, D. Carpenter. Submarines of the Imperial Japanese Navy 1904—1945. — Conway Maritime Press, 1986, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3681241による)

 

昭和19年3月21日に「伊号第五十二」はシンガポールに到着、大量の物資を積み込み3月23日にはドイツへ向け出港します。

昭和19年5月20日には喜望峰を越えて大西洋に進出、6月4日には赤道を越え大西洋上の北半球に進出します。

 

しかし、この暗号名「アカマツ」と名付けられた遣独計画は、日独間の無線傍受等により米海軍に詳細を把握されていました。

 

「伊号第五十二」は、昭和19年6月9日に「6月21日午後9時15分に大西洋上の北緯15度00分、西経40度00分の海域でドイツ潜水艦と会合せよ」との無線命令を受けます。

米海軍もこの無線を傍受し、護衛空母「ボーグ」をスペイン海域より現場へ急行させます。

 

米海軍護衛空母「ボーグ(CVE-9)」(引用:Wikipedia)

(パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1287950)

 

昭和19年6月22日、「伊号第五十二」は合流地点に到着し、20時20分頃にはドイツ潜水艦「U530」と合流しドイツ海軍の連絡将校を乗艦させます。

 

ドイツ海軍潜水艦「U-530」(引用:Wikipedia(英語版))

(By Unknown author - 75 Anniversary edition of La Capital newspaper, May 1980, page 97., Public Domain, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1036646)

 

ところが、23時20分に米海軍護衛空母「ボーグ」艦載機により第一波攻撃を受け、さらに翌24日1時に第二波攻撃を受けます。

この攻撃により、「伊号第五十二」は北緯15度16分、西経39度55分の地点で沈没、艦長宇野中佐以下乗員106名、便乗者9名の全員が戦死します。

「伊号第五十二」の作戦失敗後、戦局の悪化に伴い以降の「遣独潜水艦作戦」は行われることはありませんでした。

 

「伊号第五十二」の沈没地点(引用:Google Map)

 

「伊号第五十二」はドイツへ引き渡す金塊2トンの金塊が積載されていたという記録が公開されると、平成7年にトレジャーハンターのポール・ティドウェル氏が沈没位置を特定、船体も発見されます。

そして平成10年の再調査で遺品や積荷のごく一部が引き上げられます。しかし金塊は発見されず、また沈没地点が水深約5,000mの深海のため、調査と金塊の引き上げは断念され、回収された遺品は日本へ送られています。

なお、海中の「伊号第五十二」の様子は、youtubeの「伊52潜水艦 海の中に眠っている」に動画がありますので、興味のある方は見てみてください。

 

 

竣工後の訓練が終わりすぐにドイツへ派遣され、遥か大西洋で眠る「伊号第五十二」潜水艦は、練度の高い潜水艦を差し向けることのできない帝国海軍の状況を反映しているように見えます。

 

遠く大西洋の海底に眠る英霊に祈りを捧げつつ。

 

「伊号第五十二」潜水艦・艦型図

 (引用:世界の艦船「日本潜水艦史」増刊第37集、No.469、1993年8月、海人社、P.72)