当初は「航空巡洋艦」であった空母「蒼龍」建造計画 | 艦艇・船舶つれづれ

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「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

今回は航空母艦、メジャーな艦ですが「蒼龍」について取り上げてみたいと思います。

 

航空母艦「蒼龍」は、帝国海軍の中型航空母艦のプロトタイプとなった艦です。「蒼龍」の建造計画は、昭和5年のロンドン海軍軍縮条約締結から始まります。

このロンドン海軍軍縮条約により、帝国海軍の航空母艦保有枠はは81,000トンに制限されてしまいます。

これに対し、当時帝国海軍が保有する航空母艦は「鳳翔」「赤城」「加賀」「龍驤」の4隻で、その合計排水量は68,370トンとなり、残りは12,630トンとなります。

ただし最古参の「鳳翔」は大正11年の竣工のため、条約で廃艦とできる艦齢16年に達した際には、「鳳翔」の排水量8,370トンも加えた合計21,000トンが新型艦に使用できることになります。

 

この建造枠に対し、帝国海軍ではこの枠で2隻の航空母艦建造を計画します。昭和6年に立案された基本計画番号「G6」と呼ばれる案で、20cm砲を搭載した「航空巡洋艦」とも言えるものです。

【要目】

 基準排水量:約12,000トン、公試排水量:17,500トン、

 水線長:240m、水線幅:21.70m、吃水:6.3m

 機関:艦本式オール・ギヤード・タービン×4、主缶:ロ号艦本式(重油専焼)×8、推進軸:4軸

 出力:150,000馬力、速力:36.5ノット

 兵装:20cm50口径連装砲×3、12.7cm40口径連装高角砲×6

 搭載機:70機(常用+補用)

  ※引用:「海軍艦艇史3 航空母艦」福井静夫、1982年4月、KKベストセラーズ、P.333

 

その後「G6」案はさらなる検討が進められ、昭和9年度の基本計画番号「G8」では、その基準排水量が21,000トンの半分に収まる10,050トンとして計画されます。

航空母艦「赤城」「加賀」の竣工時には20cm主砲が搭載されており、大改装後においても装備され続けていたことを考えると、当時の帝国海軍では艦隊運用される航空母艦は巡洋艦との砲戦が想定されていたといえます。

【要目】

 基準排水量:約10,050トン、公試排水量:18,000トン、

 水線長:240.0m、垂線間長:233.02m、水線幅:23.40m、吃水:6.265m

 機関:艦本式オール・ギヤード・タービン×4、主缶:ロ号艦本式(重油専焼)×8、推進軸:4軸

 出力:150,000馬力、速力:35.5ノット

 兵装:15.5cm60口径三連装砲×1、15.5cm60口径連装砲×1、12.7cm40口径連装高角砲×6、

     25mm連装機銃×14

 搭載機:90式艦上戦闘機×24、89式艦上攻撃機×48機

  ※引用:「海軍艦艇史3 航空母艦」福井静夫、1982年4月、KKベストセラーズ、P.333

 

航空母艦 基本計画番号「G8」のひとつの風洞試験模型

(引用:「海軍艦艇史3 航空母艦」福井静夫、1982年4月、KKベストセラーズ、P.97)

 

基本計画番号「G8」は、昭和9年度の海軍軍備補充計画(通称・マル2計画)で建造されることとなりますが、昭和9年3月に発生した水雷艇の転覆事件である「友鶴事件」発生により、「G8」のトップヘビー(船体の上部に大きな重量が載ることで重心が上昇する船型)な設計が問題となり、最終的には主砲である15.5cm砲を搭載が取止められます。

これにより、「巡洋艦」としての装備のない「航空母艦」として変更された設計(基本計画番号「G9」)で建造されることになり、昭和9年11月に呉海軍工廠で起工されます。

さらに建造中の昭和10年9月に発生した「第四艦隊事件」により、建造中の船体に対する溶接構造に異常がないか確認するため、浸水後の船体を2箇所で輪切りにして調査が行われています。

紆余曲折の末、「蒼龍」は昭和12年12月に竣工します。

 

【要目】

 基準排水量:約15,900トン、公試排水量:18,800トン、

 水線長:222.0m、垂線間長:206.52m、水線幅:21.3m、吃水:7.62m

 機関:艦本式オール・ギヤード・タービン×4、主缶:ロ号艦本式(重油専焼)×8、推進軸:4軸

 出力:152,000馬力、速力:34.5ノット、乗員数:1,100名

 兵装:12.7cm40口径連装高角砲×6、25mm連装機銃×14

 搭載機:96式艦上戦闘機×12/4、97式艦上攻撃機×9/3、96式艦上爆撃機×27/9、

       97式艦上偵察機×9/0(常用/補用)

  ※引用:「海軍艦艇史3 航空母艦」福井静夫、1982年4月、KKベストセラーズ、P.331

 

建造中の航空母艦「蒼龍」(引用:Wikipedia)

(不明 - 広島県呉市海事歴史科学館所蔵品。, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3569136による)

 

 

航空母艦「蒼龍」(引用:Wikipedia)

(HIJMS_Soryu_02.jpg: User:W.wolnyderivative work: 0607crp (talk) - HIJMS_Soryu_02.jpg, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=11081045による)

 

続いて帝国海軍では、「蒼龍」と同型の航空母艦をもう一隻建造する予定でしたが、「蒼龍」建造開始直後の昭和9年12月に大日本帝国はワシントン海軍軍縮条約からの脱退を通告、昭和11年12月には条約の制限が外れることが決定的となります。

このため、2番艦の建造に際しては「蒼龍」を拡大しよりバランスの取れた設計(基本計画番号「G10」)とされた「飛龍」が建造されることとなります。

 

「友鶴事件」により、やむなく主砲である15.5cm主砲の搭載を諦めた「蒼龍」ですが、結果としてその後の中型航空母艦のプロトタイプとなり、後の「飛龍」や「雲龍」、戦時急増型の「改雲龍」型に受け継がれることとなります。

 

高空母艦「飛龍」(引用:Wikipedia)

(Donation of Kazutoshi Hando, 1970. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph - Official U.S. Navy photo NH 73063 from the U.S. Navy Naval History and Heritage Command, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=1509423による)

 

「改雲龍」型航空母艦「葛城」(引用:Wikipedia)

(不明 - 呉市海事歴史科学館, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3579960による)

 

「蒼龍」は竣工後、第二航空戦隊に編入され、昭和14年11月には「飛龍」が編入され二航戦は2隻体制となります。

昭和16年7月には南部仏印進駐作戦の支援を行った後、大東亜戦争の開戦に向けてハワイ・真珠湾の奇襲攻撃に向かいます。

真珠湾攻撃後の 12月にはウェーク島攻略部隊の支援として空襲を行った後、内地に帰投します。

 

昭和17年1月中旬には再度南洋方面の作戦に参加するためパラオ諸島に進出し、2月19日には豪州・ダーウィン空襲に参加しています。

 

ダーウィン空襲により爆発する商船「ネプチューナ」(引用:Wikipedia)

(not identified - This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5650001による)

 

昭和17年3月には僚艦とともにクリスマス島(現・オーストラリア)攻略作戦、4月にはインド洋でのセイロン沖海戦に参加し、商船数隻を撃沈しています。

そして昭和17年6月にミッドウェー攻略作戦に参加し、日本時間の6月5日朝に米海軍航空母艦「ヨークタウン」所属の「ドーントレス」爆撃機の攻撃により1,000ポンド爆弾3発をそれぞれ3基のエレベーター付近に被爆します。

 

ミッドウェー海戦で回避運動を行う航空母艦「蒼龍」(引用:Wikipedia)

(United States Army Air Forces (USAAF) - This image is available from the United States Library of Congress's Prints and Photographs divisionunder the digital ID fsa.8e00397.This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing for more information., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=392515による)

 

この被爆により格納庫内の魚雷等が誘爆するとともに、罐室が全滅し主機械が停止・航行不能となり総員退艦が命じられます。

その後、一度は火災が弱まり「蒼龍」救出のため乗員が乗艦の準備を始めますが、直後に再度爆発が発生したことから放棄されることとなり、日本時間の6月5日夕方に沈没し姿を消します。

 

「友鶴事件」が起こらなかったら、「蒼龍」は「航空巡洋艦」的な艦として建造されていた可能性があり、そのまま完成した場合には「航空母艦」としては中途半端な性能な艦となっていたと思われます。大東亜戦争の諸戦の時期に主砲取外しと格納庫拡大の再工事を行っていた可能性もあります。

 

思わぬ設計変更により、より近代的な航空母艦として完成したことにより「蒼龍」は大東亜戦争緒戦期の活躍ができたと言っても過言ではないと思います。

ちなみに、米海軍においても1930年代に「フライトデッキ・クルーザー」という名称の航空巡洋艦を設計しており、この流れは世界的なものであったようです。

 

米海軍の航空巡洋艦「CF-2」の設計案(引用:Wikipedia)

(United States Navy - http://www.history.navy.mil/photos/images/s-file/s511-05c.htm, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=11322243による)

 

造艦史における航空母艦近代化の過程において、艦隊決戦における砲戦を意識した「航空巡洋艦」が、真剣に考えられていたことを、帝国海軍の「G6」と「G8」、米海軍の「CF-2」などの資料が示しています。