平成25年GWの巡視船「よしの」から 同名の帝国海軍・海自・海保の3隻 | 艦艇・船舶つれづれ

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旧帝国海軍および海上自衛隊の艦艇、海上保安庁の船艇、主に戦前の民間船舶を中心としたブログです。
「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

昔の写真からの第二段です。

平成25年のゴールデン・ウイークに鳴門海峡・大鳴門橋と淡路に行ったときの写真です。

 

大鳴門峡と渦潮

 

巡視船「よしの(PM-27)」

 

巡視船「よしの(PM-27)」

 

当時、子供が撮った写真なので、1枚目は船首が切れています。2枚目はウォータージェット推進独特の波が立っていますね。

 

「よしの」は前回取り上げた「きくち」と同じく「とから」型の巡視船で、平成18年度計画によりユニバーサル造船京浜事業所(現・ジャパン・マリンユナイテッド横浜事業所)で建造され、平成21年3月に竣工し徳島海上保安本部に配属されています。

船名の由来は、所属が徳島で、PMの命名基準が「河川・島」であることから、徳島県の大河「吉野川」からであると思われます(ネットで検索しましたが、わかりませんでした)。

【要目】

 総トン数:335トン、船質:軽合金、全長:56.0m、最大幅:8.5m、深さ:4.4m

 機関:ディーゼル×3、推進装置:ウォータージェット×3

 出力:15,000馬力、速力:30ノット以上

 兵装:20mm多銃身機銃×1

 ※出典:「世界の艦船」No.840、2016年7月、海人社、P62

 

巡視船「よしの(PM-27)」

(出典:海上保安庁 徳島海上保安本部HP、https://www.kaiho.mlit.go.jp/05kanku/tokushima/gyomusyoukai_page/30_gyoumusyoukai_senntei/senntei.htm

 

「よしの」は、海上自衛隊の護衛艦でも艦名として採用されています。

「よしの(DE-223)」は、「ちくご」型護衛艦の9番艦で、三井造船玉野事業所で昭和48年9月に起工され、昭和50年2月に竣工します。

「ちくご」型は、米海軍から貸与され海上自衛隊の黎明期を支えた「くす」型を更新するために、周辺海域の防衛を目的として建造されました。

となみにこちらの艦名は、Wikipediaによると「吉野川」に由来すると記載されています。

【要目】

 基準排水量:1,470トン、全長93.0m、最大幅:10.8m、吃水:7.0m

 機関:ディーゼル機関×4、推進軸:2軸

 出力:16,000馬力、速力:25ノット、乗員数:165名

 兵装:76mm連装砲×1、40mm連装機銃×1、アスロックSUM8連装発射機×1、

     3連装短魚雷発射管×2

 ※出典:世界の艦船「海上自衛隊全艦艇史」増刊第66集、No.630、2004年8月、海人社、P108

 

護衛艦「よしの(DE-223)」

(出典:丸スペシャル「護衛艦ちくご型」1982年5月、光人社、P58)

 

竣工後の「よしの」は、呉地方隊に配属されます。昭和62年7月には舞鶴地方隊に編入され、日本海方面で行動します。

平成元年12月には横須賀地方隊に編入され、さらに平成7年3月には再び呉地方隊に編入され、最初の定係港に戻ります。そして、平成13年5月に除籍されました。

 

 

「よしの」には、戦前の帝国海軍に先代が存在します。

「吉野」は、明治25年3月に英国アームストロング社で起工され、明治26年9月に竣工、明治27年3月に呉に回航された、「防護巡洋艦」と呼ばれる種類の艦です。

完成当時は軍艦では世界最速の23.0ノットを誇り、備砲は全て速射砲で統一された均整の取れた艦で、艦首方向への砲力を重視し、15cm単装砲4門のうち3門が指向できる設計となっています。

 

【要目:新造時の「神風」】

 常備排水量:4,216トン、垂線間長:109.7m、幅:14.2m、平均吃水:5.2m

 機関:直立4気筒三連成レシプロ蒸気機関×2、主缶:円缶(石炭専焼)×12、推進軸:2軸

 出力:15,900馬力、速力:23.0ノット、乗員数:350名

 兵装:15cm40口径単装砲×4、12cm40口径単装砲×8、47mm単装砲×22、36cm魚雷発射管×5

 ※出典:世界の艦船「日本巡洋艦史」増刊第32集、No.441、1991年9月、海人社、P50

 

 

巡洋艦「吉野」

(出典:「幕末以降帝国軍艦写真と史実」1935年11月、海軍有終会、P53)

 

「吉野」は、開港直後に勃発した日清戦争において、帝国海軍の主力である第一遊撃隊の旗艦として、豊島沖海戦や黄海海戦で活躍します。

 

明治31年2月に海軍軍艦及び水雷艇類別標準が制定されると、「二等巡洋艦」に類別されます。

 

日露戦争では、第三戦隊に所属し旅順港閉塞作戦に従事しますが、明治37年5月15日に旅順沖から裏長山列島へ向かう途中、一等巡洋艦「春日」が「吉野」の左舷後部に衝突し、「春日」艦首の衝角によって「吉野」は破口を生じ、浸水により沈没してしまいます。

なお、この明治37年5月15日には戦艦「初瀬」「八島」が触雷により沈没しており、帝国海軍厄災の日となってしまいます。

ちなみに、この「吉野」の艦名は同じ「吉野」でも奈良県の吉野山に由来しており、他の2艦船とは異なります。

 

今回は7年ほど前のゴールデン・ウイークにおける「一枚の写真から」でした。