金田和三郎技師の計画した幻の弩級艦と50万トン戦艦 | 艦艇・船舶つれづれ

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「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

8月に国会図書館関西館でコピーしてきた資料を整理していました。コピーの中に雑誌「船の科学」昭和44年8月号に掲載されたに遠藤昭氏の「日本海軍建艦計画史」という連載の第4回が載っています。

この中に「日本建艦の特長」という項があります。少し長いですが引用します。

 

「  この時期の日本海軍造船陣は、優れた二つのアイデアを示すことによりその高い独創性を世界に

 示すに至った。

  その一つは、戦艦薩摩の設計に示した単一巨砲主義への目ざめであり、迅速に巨艦を建造する工

 業力を持った英国に1年以上遅く着工されたドレッドノートを3年も早く完成させられ、世界初の弩級艦

 の名誉を奪われてしまった。

  その2は背負式砲塔というアイデアである。これは建造されなかったため世間にあまり知られていな

 いが、後年、昭和16年にいたり発見された資料である。珍しくもあり、また、わが日本海軍戦艦史の貴重なひとこまでもあるから、つぎに「有終」に発表された艦型図および要目のみを掲載する。

 計画年代 海軍大学の推定: 明治35~36年

        艦本4部の推定:明治37年

 計画者  金田和三郎技師と推定される。

 (注)「有終」昭和16年6月号、市来少将の寄稿                                 」

 

として、戦艦の案と巡洋艦の案の概略図と要目が記載されています。

 

この計画については、並木書房から2007年12月に発刊された石橋孝雄氏の著作「図解 日本帝国海軍全艦船1868-1945 戦艦・巡洋戦艦」にも取り上げられています。

こちらでは、昭和12年6月25日付で海軍大学校の研究部がまとめた資料「一等戦艦並に一等巡洋艦の計画」として掲載されています。

【要目:一等戦艦】

 常備排水量:17,000トン、全長:140.207m、垂線間長:131.06m、全幅:24.384m、吃水:8.535m

 速力:18ノット

 兵装:30cm連装砲×4、15.2cm連装砲×6、15.2cm単装砲×4、12cm単装砲×4、30cm探照灯×4、

      45cm魚雷発射管×4

【要目:一等巡洋艦】

 常備排水量:12,000トン、全長:144.779m、垂線間長:134.11m、全幅:21.33m、吃水:7.92m

 速力:22ノット

 兵装:15.2cm連装砲×8、15.2cm単装砲×4、12cm単装砲×6、30cm探照灯×4、

      45cm魚雷発射管×4

  ※出典:「図解 日本帝国海軍全艦船1868-1945 戦艦・巡洋戦艦」石橋孝雄、

        2007年12月、並木書房、P.552

 

「一等戦艦試案」

 (出典:「図解 日本帝国海軍全艦船1868-1945 戦艦・巡洋戦艦」石橋孝雄)

(2007年12月、並木書房、P.554)

 

「一等巡洋艦試案」

 (出典:「図解 日本帝国海軍全艦船1868-1945 戦艦・巡洋戦艦」石橋孝雄)

(2007年12月、並木書房、P.556)

 

「戦艦試案」は、確かに主砲は30cm連装砲に統一されており「弩級艦」と言えそうですが、前後の主砲塔は同一平面上にあるため、厳密な「背負式」ではありません。また速力も18ノットと戦艦「敷島」型と同じで、その点では「ドレッドノート」には劣ります。ただ、副砲として15.2cm砲を装備するところは、後に副砲を復活させた英国海軍の動向からみると、先見の明があったのでは(従来の思想を踏襲したとも言えますが)と思います。

一等巡洋艦の方は、主砲を従来の20.3cmから15.2cmへ変更され、砲塔の配置も戦艦「薩摩」型と同様であることから、「主砲の数を増やした装甲巡洋艦」と言えなくもないですね。速力は22ノットと向上されているところは、帝国海軍の艦艇に共通した「高速力」主義に合わせたものでしょうか。

 

いずれにしろ、明治38年に勃発した日露戦争より前、そして明治39年12月に竣工した英国戦艦「ドレッドノート」より2~4年前に、このような計画を検討していた帝国海軍艦政本部の先見性には驚きます。

 

これらの計画を立案した「金田和三郎技師」ですが、さらに奇抜な戦艦の試案を策定しています。

明治45年の計画とされる、その名も「金田中佐の五十万トン戦艦」案です。

 

【要目】

 排水量:500,000トン、長さ:670m、幅:91m、速力:42ノット、乗員:12,000名

 兵装:40cm連装砲×50、14cm単装砲×200、12cm単装砲×100、魚雷発射管×200

  ※出典:「世界の大艦巨砲」石橋孝夫、2016年7月、潮書房光人社、P.10

 

この計画は、永村清元造船中将が昭和32年に記した「造船回想」に掲載されたもので、当時の金田中佐は、海上の最大の波浪の長さが48.7mであることから、船の幅をその倍とすれば、船の動揺はほとんど生じない、との発想から艦の長さと排水量を割り出したそうです。

 

ところで、この金田和三郎技師ですが、明治27年に兵学校を卒業し、その後は砲術畑へ進み砲術学校の教官などを経験しています。その後英国へ駐在し、明治45年に艦本へ出仕しています。このため、金田技師jは砲術の専門家の視点から「洋上の巨大な動く砲台」として検討したものではないか、と思われます。

 

明治45年といえば戦艦「扶桑」の起工後、露国の次の仮想敵国とされた米国に対する戦備を考慮し、後の「八八艦隊計画」に繋がる計画が検討されていた時期であり、40cm主砲の採用も「長門」型の検討時期とも一致することから、用兵側から見たこのような提案があってもおかしくはない時期です。

ただ、あまりにも突飛な案であり、当時の造船技術・設備では到底建造できるものではなく、現在の技術を持ってしても実現は非常に困難な案ですね。

 

「50万トン戦艦案」

(出典:「未完成艦名艦1906~45」光栄、1998年1月、P.158-159)

 

金田技師は平賀譲造船中将とも懇意であり、平賀中将は金田技師のことを「金田という人は突飛なことを言い出す。これは空想的なこともよくあるが、ときには大いに参考になる意見もある」と評しており、戦艦長門の前墻に採用された「櫓墻」を提唱したもの金田技師であったとされています。

 

帝国海軍の主力艦の国産化が進み始めた時期における秀逸な設計と、比較的自由な発想による提案として、このような帝国海軍艦艇建造史のエピソードがあったことも、知ることは楽しいですね。