帝国海軍巡洋艦を偲ぶタイの記念物・砲艦トンブリ | 艦艇・船舶つれづれ

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「海軍艦艇つれづれ」からタイトルを変更しました。

「昭和造船史 第1巻」を斜め読みしていると、「第二章 支那事変までの海軍艦艇の造修」の中に「2.2.8外国向けの艦艇」という項目があります。この中には、以前取り上げた満洲国の砲艦や、中華民国の巡洋艦「寧海」型(後の帝国海軍二等巡洋艦「八十島」型)などが取り上げられています。

そしてもう一国、大東亜戦争開戦前の日本国内で建造された艦艇を使用していた国があります。「シャム(タイ国)」です。

当時の東南アジアから南アジアにかけては、そのほとんどの地域が欧米の植民地となっていました。現在のベトナム付近は仏領インド支那、ミャンマーからインド・スリランカおよびパプアニューギニアは英領、インドネシア・マレーシアは蘭領東インドと呼ばれていました。その中で、「シャム国」のみが独立を保っており、親日国でした。

 

シャム国では、従来から艦艇は英国から購入していましたが、昭和9年に計画された海軍第一回拡張計画により建造を計画した2,000トン級砲艦2隻の建造を川崎造船所に発注します。

 

1番艦「トンブリ」は、昭和12年1月に起工され、昭和13年6月に竣工し、2番艦「スリ・アユタヤ」は昭和12年7月に起工され、昭和13年8月に竣工します。

【要目】

 常備排水量:2,015トン、満載排水量:2,265トン、全長76.5m、幅:14.4m、平均吃水:4.2m

 主機:MAN式でイーゼル×2、推進軸:2軸

 出力:5,200馬力、速力:15.5ノット、乗員:155名

 兵装:20cm50口径連装砲×2、8cm40口径単装砲×4、40mm機銃×2、13mm単装機銃×2

 ※出典:Wikipedia

 

シャム国砲艦「トンブリ」(出典:英語版Wikipedia)

 

「トンブリ」型砲艦では、帝国海軍の航空母艦「赤城」「加賀」と同型の20cm連装砲塔を装備し、艦橋部分は塔型艦橋の三段構造で、そのデザインは「トンブリ」型の建造と同時期に改装を受けた一等巡洋艦「古鷹」級に似た形状とされ、建造当時はシャム国で最新鋭の砲艦で、一部の資料では「海防戦艦」に類別されています。

 

昭和15年11月に、泰・仏印国境紛争が発生すると、「トンブリ」が所属する第3戦隊が出動し、昭和16年年1月にシャム国南東部のコーチャン島付近で、仏国の軽巡洋艦「ラモット・ピケ」などからなる仏国艦隊との間に「コーチャン島沖海戦」が勃発し、「トンブリ」は20cm主砲で砲撃したものの練度不足で命中弾を与えられないまま、仏国艦隊の集中砲火を受け艦橋が炎上し、右舷側に横転・擱座してしまいます。

昭和16年の後半に帝国陸海軍が南部仏印に進駐すると、川崎造船所はシャム国から「トンブリ」の浮揚の依頼を受け、修理を行います。

その後は戦闘艦として活用されることはありませんでしたが、係留状態で練習艦として昭和34年まで使用された後退役し、艦橋の一部と主砲塔がタイ海軍兵学校に保存されています。

 

タイ海軍兵学校に保存されている「トンブリ」の一部(出典:Wikipedia)

 

一方「スリ・アユタヤ」は、「コーチャン島沖海戦」参戦のため駆けつけますが、戦闘には間に合いませんでした。「トンブリ」の損傷後は、海軍の旗艦と見なされるようになりましたが、その後は第二次世界大戦後も含めて目立った行動はなく、昭和13年のアーナンダ・マヒドン王と、昭和25年のプミポン・アドゥリヤデ王のスイスからの帰国旅行で王室の御召艦として使用されました。

 

昭和26年6月に、アーノン海軍大佐により実施されたクーデター「マンハッタン反乱」で、当時のピブーン首相が「スリ・アユタヤ」に監禁されますが、政府に忠誠を尽くした軍隊、警察により攻撃を受けバンコクのウィチャイプラシット砦の前のチャオプラヤ川で擱座し、クーデターは失敗に終わります。以降、タイでは海軍の縮小が行われます。

チャオプラヤ川で炎上する「スリ・アユタヤ」(出典:英語版Wikipedia)
 
「スリ・アユタヤ」の残骸は航海の障害となったことから、スクラップとして回収されています。
 
保存されている帝国海軍の巡洋艦と兄弟ともいうべき「トンブリ」の艦橋と主砲塔は、戦前に建造された帝国海軍の艦艇を偲ぶ数少ない記念物となっています。いつかはこの目で見てみたいですね。